panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

1942年5月22日、ベンガル湾沖戦死


  10時には疲労で深く寝ていたが、スコールがまたやってきて車を出す仕事が「与えられ」、起きた。その後、寝られずに、加藤隼戦闘隊長加藤建夫のことをウィキでみてみる。
  アンダマン海でもインド洋でもなく、ベンガル湾沖で戦死ということであった。なんの因果で、北の国で生まれた人間が、いってみればビルマくんだりの熱帯の海で亡くなるのか?
  勿論、戦争だからである。名門旭川東高校の前身が彼の母校だが、その後陸軍士官学校を出た優秀な人物であったということが、当時においては、すなわち南洋で死すという運命の一つの背景である。
  梅棹忠夫という生態史観の大学者は、日本は北国だと語っている。インドやタイの暑さを経験して帰ってくれば、日本がいかに北にある国か、いかにアジアではないか、がわかると。事実、日本は冬季オリンピックもやったし、アルプスまである(アルプスという云い方自体がオリエンタリズムじゃね?。我輩はずっと反対しているが、それほど山に興味があるわけでもないので)
  しかし大東亜共栄圏は、西アジア以外のアジア全域に及んでいる。これではなあ。道産子が熱帯の空に死ぬ道理である。
  我輩も、あにはからんや熱中症で死ぬよりは、凍えて死ぬほうを選びたい。ビルマなんぞでは絶対に死にたくないのである。のである、である、ある、、、、、(エコー)。
  とはいえ、いまや、東京より東南ああアジアのほうが涼しいだろう、というメールを受け取った。いかんせん、否定できない。・・・今日など(といってももう昨日になった)、その辺を歩くだけで、雨上がりのアンコールワットを歩いてる気分だった。全身これ沐浴状態。
  今日も4回書いた。寝よう。