panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ふふふふふふふふふ、不覚!


  明日、早朝、自宅を出て、ミャンマー出発である。つねに貧困と差し向かいの書生生活ゆえというより、寒風酷暑、艱難辛苦に徹するべく、成田に一泊することあたわず、いつも通り総力を結集して6時くらいに出発である。
  総力といっても、いつも5時には起きる実の母に電話するよう頼んだというにすぎない。家人1,2は寝ているもんで、、、、もんでもんでもんで、、、、(エコー)。
  しかし何か見落としはないかと最終チェックに入った午前に、今日がマンションの夏祭の日であるということに気づいた。それからいま夜6時、延々と日本の夏、日本の祭が続いている。中庭に面した自室ではうるさくて、結局今日も居間に移って、今にいたる。うーん。してやられたぜ、マンション自治会。
  でもまさに今聞く拡声器を通じた音楽は、まるで昨日の加藤隼戦闘隊の歌のようであり、繰返しかかる東京音頭も♬♬♬月が出た出た月が出たあ♬♬♬も、ある意味同じような昔の音楽である。まさしくそれらは、日本のなかのアジアを体現しているのである。
  じゃそれに聞きほれているかといえば、我輩、まったく無関心どころかもう止めてほしいと心から念願する。そういう雰囲気は伝わると見え、これまで我輩に一緒に祭をやろうともちかけてくるマンション住民は一人もいない。
  こうして一つの問いというか疑問が浮かんでくる。明日から我輩はアジアのなかのアジア、ミャンマーに出かける。高い飛行機代ともろもろの出費を覚悟して。アジアを体験したいからである。・・・でも、なぜか、いまそこにあるアジアにはまったく拒否反応しかない。
  どうしてなのか。祭はもともと嫌いだし、共同体も共同謀議も、ついでに共同通信も嫌いなのである。日本はアジアでもっともアジアではないところなのに(そもそもアジアではない!)、そこに残るわずかな庶民のアジアにさえ嫌悪の情をいだく我輩が、好んでアジアのなかでもっとも遅れた国のアジアらしさを求めて出て行く。
  どういうものなんだろうか。なぜなのか。やはり自分自身にも説明がつかない。我輩は演歌の故郷函館の生まれである。演歌はよく知ってるし、ほとんどを歌える。だから演歌に文句はない。なのに、それがこういう形で共同体的に迫ってくると、ほとんど反射神経的にジンマシンが出てしまう。
  ここから引き出せる結論というか、その一つは人間というものは複雑であるということ。もう一つはたんに我輩が矛盾しているということ。さらにもう一つの可能性としては、この共同体は欺瞞である。あるいは強力すぎるということ、などである。うーん。さほど建設的な解はただちには生まれないね。ずっと考えてきたことだしね。
  ということで不覚をとった出発前日なのであった。でもこれを読む方々には若干楽しんでもらえたのではないか。人生山あり谷あり、いまそがり。
  仕方なく我輩は居間で新作のミス・マープルの見落としていたものをみただけであった。すすすすすすまん。世の中の忙しい人々。