panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

12度低い

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 昨日の札幌のゴルフコースでは渋野渋子女史は20度の気温で試合をしていた。12 度か13度横浜より低かった。

 今日の函館は、横浜よりちょうど10度低い気温である。ふふふ。フフフフフフフフフフフフフふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。

 何だか王者の風格を自分に感じるのはなぜ?

 ということでこれからほとんど更新できない状態で、比較的長い期間、避暑しております。嫉妬の嵐が予想されるが、正義は勝つ!・・・久しぶりに出ました。

国民の暗愚化を阻止できるのか

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 峠を越したと思うのだが、いぜん暑い。一歩でも外に出るのが億劫である。というか、駐車場までの何十歩が嫌だということでもある。

 さて人々の暗愚化について朝から考える。居間が新旧の世界史全集で覆われつつある我が家では、なぜ昭和30,40年代のまだ貧しく余裕のなかった日本で普通の家庭に、いろいろな全集本が整えられたのであろうか、ということを考える朝から始まるのである。

 なぜ豊かな社会(なのか、今でも日本は?)で、大卒も人口の半分に達した高学歴社会(なのか、ほんとに?)の日本で、無教養化が進行するのか。わけわからん。

 マンションのサイズが小さいので本を置くと汚くなるという美意識優位の家屋構造に一つの、そして誰も指摘しないので指摘したい一因があるのかとも思うが。本という名のゴミ屋敷になっては困るわけだが。

 写真は誰あろう、ゴルバチョフ。こんなになってしまったんだなあ。すれ違ってもわからんね、きっと。

 そして、大学時代のゼミの一員から何十年ぶりかの連絡が入った。今月か来月会おうというのだが、何を覚えていて何が違うのかをすり合わせると、自分の偏りがわかるかもしれない。そもそもまったく無教養な学生時代だったということが外目から露呈する可能性もあるなあ。自らの暗愚をさとる瞬間がくるのか。

この環境で何十年もやってきたとは

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  点数をつける仕事のしあげに職場にやってきた。そして今日は扇風機持参だ。

 この高価な扇風機には「熱中症対策」というボタンがある。押してみると、赤く「警戒」という文字が輝く。他には、注意と安全という項目がある。

 何度押しても警戒になる。そして急に風量は全開になり、ものすごい風が吹き荒れる。おいおい、この部屋には冷房もあるんだがなあ、と扇風機に語りかけるポキ。

 そもそも最近、友人が少ないことに気づいて、話の能力が落ちているのではないかと疑惑の念がわきはじめているので、なんにでもまずは語りかけを励行しているのだ。扇風機も例外ではない。その扇風機がこの全出力満開で風を送ってくる。

 え?この部屋はそんな危険状態なのか。漫然と本なんか読んでる果てに、ポキは気づかずに熱中症になってしまい、帰らぬ人となるのか。うーん。

 たしかに最近でもないが、ここ何年か、帰宅時の車の中で、頭痛がしたり、気分が悪いことが少なくない。よくしゃべった後とか、一日中この部屋にいた後とかが傾向としてそういう現象と相関している。

 ということは、もしかしてこの圧倒的に無能なこの冷房が、私ことポキを熱中症の瀬戸際に追い込んでいたのかもしれない。うーん。

 しゃべりすぎて脳に酸素がまわらないと思うことはよくあったが、もしかしてそれに相乗して、この熱気的な部屋の状況が、私の寿命を縮めていたのか。

 そういう部屋で数十年仕事をしてきたわけか。実質上、日中の大工のようなもんだったんだな、ポキは。ある意味、そう思うとある種の安堵もある。一人冷房ききまくった環境でぼんやり本を読んでいたという罪悪感をもたなくていいからである。

 この危機一髪的環境が実は、ポキの回顧的精神に対して肯定的影響をもつとは。ま、複雑なのだ、人生を考えるということは。・・・・しかし云っておくが、北海道の冬はいいねなんてものではない。震えるほど、震える、、、?。

暑さのあまり1日を忘れる

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 昨日、午後一番で歯医者の予約があって、大森まで行ったのだが、終わった段階で一日が終わった。終わって暑い中を、丸山桂里奈行きつけの喜楽という中華の店まで歩く。といっても駅裏になるのだが、暑い。

 で着くと、どうも定休日ではないか。思わず近所の有名な純喫茶で何かと考えて、路地裏を歩くが、暑い。で着くと、そこも定休日。大森駅の海岸よりの一帯は、もしかして、木曜定休なのか。と思ってみるが、やはりいぜん暑い。

 どう考えようと暑くて、北海道すら暑いということだった。昨日は。でも実母ユリはいい風が吹いてくるので、窓際に座っているといっていた。扇風機もいらないという。ああ、戻りたい。さすらいのポキではあるが、故郷というものへ。

 ということで、暑さのあまり、1日には書くという習慣すら忘れた。外で仕事をする人々がたくさんいたが、頭が下がる。世界は誰かの仕事でできている。そういう次第を噛みしめているところである。

ものにはほどがある

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弱者 - Bing images

 ようやく梅雨が晴れたが、気は晴れない。仕事が残っているのである。憂鬱である。この仕事の中身は、評価すること、である。高く評価したいのに、対象者はそうでもないらしく、つねに芳(かんば)しくない。くっ〇ー。

 さて投票には行ったが、山本太郎の政党にはまいった。代表制民主主義というものがわかっているのだろうか。どうして誰もその政党の議員となったALS患者やからだのほとんど動かない人が議員として活動できるのかと問わないのか。代表というのは、そういうことのために用意された制度ではないのか。

 貧者を救うため、貧者を代表に送ると、その議員となった貧者は、とたんに年間3千万ほどの所得を得る高額所得者となる。そうなると、ある者の変質が生じるかもしれない。金に目がくらむのか、もともとよからぬことを考えていたのか。

 この場合、金の力や恐ろしさを知っている中産的代表者のほうが、金に転ぶことなく、貧者たちの意見をよりよく代表できるのではなかろうか。

 自己同一性の罠にはまった感の強い、左翼の極致ともいえる太郎政党の戦略に、左翼的なことには一切弱い有権者の一団が投票することになったわけだが、まさかこれほど有権者が左翼的思考から不自由であるとは、ポキは思いもしなかった。

 そもそも政治家を志すという時点で政治家たちは反社的臭いをまとう。いまどきまともな人間が政治家になどなろうはずもないからである。そのなかでより腐っていないリンゴを選ぶのが選挙なのだ。どうしてこうもみえすいた弱者戦略を訴える左翼の詭弁に、人びとは動かされるのか。アホなのか。純情なのか。純情なアホなのか。

 そして、なぜ誰も、ただの一人も、そういう代表者にきちんとした政治活動ができるのかを問いただそうとしないのか。

 と上半身裸で仕事をしながら思うのであった。暑いなあ。

仕事はつづく

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 昨日はワイドナショーをみたあと、選挙に行った。家人2が帰って来ていたからである。結局、二極化?した投票行動をしてから、昼飯を食いにでた。

 それにしても、こんな議会に意味はあるのだろうか。良識の府としての参議院と昔ならったが、いまも試験にそう書くのが正解なのだろうか。むしろ衆議院以上にポピュリズムの網にかかったような人物たちしか出馬していないのではないか。そしてそのなかでも、社会のポピュリスト地図に合致した人物が選ばれているのだから、二重に劣化した感じをうける。

 もうこんな議会はいらない。昨日は篠田英朗『憲法学の病』を読んでいて、憲法ではなく、憲法学者こそが諸悪の根源だという理解を得たが(篠田自身がそういう意図で書いている)、議会や間接民主制を根本から考え直す政治学者が出てこないものだろうか。ただ投票行動を大金をかけて調査するだけの政治学者には何もできないことは明々白々だが。

 ますます政治にも政治家にも興味を失うのであった。昨日の松本のワイドナショーのテーマである芸人の世界の事情と大して変わらんしね。・・・社会のすみずみまで末期的なんじゃないかと真剣に思うとしても、責められるのだろうか。

生産社会から消費社会へ

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 人は生きるために働くのか、働くために生きるのか。これが生産社会。

 人は生きるために消費するのか、消費するために生きるのか。これが消費社会。

 もう10年も前に、最近亡くなったバウマンが『グローバリゼーション』という本のなかで云った言葉。最近ますますその傾向が強まってきた。ある意味、京都という記号はその最たるものである。そうだ、京都へ行こう、なんてフレーズに騙されて京都行ってみると、そういう風に待ち構えていたわけでもあって、いいなと思って、また京都旅行を企画するような、、、。

 気を付けたい。写真は消費の女王、イメルダ。彼女は、今だいるだ、イン・フィリピン。健在なのだなあ。いい靴履いてるからか。マニラの中華街のそばの彼女の靴御殿=宮殿には行きそびれた。 

7月は忙しい

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 例年だが、忙しいことに気づいた。といっても熱意をもってやりたいことは一つもない。相手のある商売なので、相手次第だからだ。相手が熱意がないどころか、たまに死んでいないことを確かめる。という手探りで進める仕事に何の楽しみがあろうか。

 いまは机上の京都散策で忙しい。喫茶店と寺院塔頭の庭とで全体を構成しているのだが、応仁の乱で主役級なのにその後の行方が今一つわからないポキと同姓の武家の行方もいつか追ってみよう。

 いずれにしても明日も仕事だし、朝から晩まで缶詰状態なので、嬉しくないことは続くのであった。

京都本と、、、、ますます遠ざかる東南アジア

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 流儀本の次は京都本。つづけざまに古本で何冊か注文したが、寺社仏閣関係ではなく、今回は喫茶部門?。京都の喫茶店が広く観光の目玉になるのはこの本が21世紀になって発売されたからのようである。ポキがフランソア喫茶室に入る前に(同じ通り)、人だかりがしていた喫茶店ソワレで働いていたことのある人が著者。

 昔の大学町にはいい喫茶店があり、愛好されていた。その端くれに属するポキとしては、京都の喫茶文化に、たとえ商業的理由から近年の「発明」品的な喫茶店が少なくないとしても、ぐっーと引き付けられた。

 老後は京都のマンションというのは一つの考えかもしれない。春秋だけの季節限定だが。いうまでもなく、春夏秋冬を過ごすほど、アホではない。

 ますます国内回帰が進み、東南アジアに対する情熱が消えるこの頃だが、日本文化に対して東国にして北国にして蝦夷地的な辺境視線の歪みが弱まるのはよいことだろう、、、、か。