panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

こころの平安とよいくらし


  結局明後日まで内装工事はかかり、明日の店番?は家人1の任務となる。工事の末端の人々はとても丁寧な仕事をするわけだが、武士と町人という関係を思った。これは梅棹忠夫の対談を読んでいて何となく発想したわけだが。
  武士は指令をくだす方。つまり管理者側。町人は指令を実行する方。偉い(権威)のは武士だが、実際は町人がきちんとした仕事をするのであって、武士側はたんに往々威張っているだけである。この対比では、陸軍参謀本部は武士、実戦で死ぬまで突進する大和の船長はじめ「下級」軍人が町人である。明治以降インテリは武士で、しかし梅棹は琵琶湖の漁民をルーツとし西陣で成功した町人の一員として、この日本的インテリが嫌いなのである。
  町合理主義者、いや超合理主義者である梅棹はあるとき、「こころの平安」は「よいくらし」に道を譲ったというような表現をした。これは示唆的である。どこでももうよいくらしへの欲求を否定することはできない。
  このこころの平安を前近代、よいくらしを近代と考えると、二つの世界の原理がある意味よく対比される。経済が発展しても一部の人間が豊かになるだけの前近代世界ではよいくらしを求めるより、こころの平安を追求する宗教的な態度のほうが合理的であろう。世界はまだ細かく分化(分業)しておらず、中間層も成立していない。豊かになりうるのはごく一部の人々が血の特権によって受ける僥倖(ぎょうこう)でしかない。そうやって富や力の不平等があってもとくに世界は不安定ではなかった。そういうものだったからだ。しかし近代は多数の人々の豊かな安定した平穏なくらしを可能にした。競争と動員と独立心(個人主義)によって。
  ということで、人類の大半は、もはや禅だの信心だの伝統だの慣習だのに頼って共同で生活する地平をこえた。よいくらしを求めて世界は回っているわけである。
  この二分法的対比はたくまずして見事ではないか。実にシンプルだが、わかりやすく二つの世界を浮き彫りにする。そして、ノスタルジーのぼけた目でみている我輩の東南アジアもまたこの例外ではなく、よいくらしの世界に急速に突入して、ますます近代世界が地球を覆うわけである。
  我輩は宗教も宗教的世界も気に入らないが、しかし近代世界がこうして人間を一元化していくことにはもっと悲観的である。こころの平安にたどりつく道は多様だが、よいくらしの道はおそらく一つだからである。アメリカナイゼーション?・・・いかんとしもしがたく、いかんともいいがたく、、、、。