panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

秋風に近い朝になる


  朝はまるで秋ではないか。曇っているし、我輩らしい?8月17日日曜日ではないか。
  昨夜届いて一気にかなり読んだが、いつも云っていることを薄めて云ってるだけではあるが、売れているらしい。結構なことである。中国韓国東南アジアがいかに日本と違う地域か、人間かということを、まず根底から日本人は学ぶべきである。
  恥知らずでないと生きていけない大陸的環境というものを最初に指摘したのは、きっと梅棹忠夫大先生であるが、彼の第5巻はまだ読みきれない。600ページ弱なんで。でも「宗教の比較文明論への試論」論文だけは読むべきである。というか秋には若人に配布するか。これが未公刊だったのにはやはり理由があると思う。非難轟々だったろうと思うから。でも若干強引ながら、洋の東西の宗教的発展が実は生態学的基盤にもとづくものであることをよく証していると思う。
  層序論というのがあって、宗教が一地域において最高で3層にしかならないということを論証している部分も興味深い(別の論文で)。つまり土着信仰が第1層で、そのうえに普遍宗教が成立すると、これが第2層。つまりキリスト教や仏教である。そして梅棹のいう第二地域(つまりユーラシア大陸本体部分)ではさらに第3層が成立して、最初の土着ないし民族信仰を部分的に復活かつ第2層普遍宗教を踏まえた普遍宗教がなりたつ。これは道教(中国)、ヒンドゥ教(インド)、イスラム教(アラブオリエント)である。対して日本と西欧という第1地域では第2層どまりである。つまり仏教とキリスト教である。だから万が一、この地域では、また、大きな土着宗教の変身的復活もありうるかもしれない。
  ともあれ西欧と日本は似ている。宗教改革があったのもこの二つの地域だけだという。え?日本の宗教改革?梅棹先生は西のプロテスタンティズムには日本の浄土真宗が対応するという(法華経は対して伝統仏教の強化復活)。なーるほど。
  宗教のあり方まで第1地域は一致しているわけだ。事実、教区制や檀家制などもそうした宗教改革と関連しているようで、東南アジアの仏教徒には檀家という制度はない。どこの寺にも人は縛られていないのである。墓もないし坊さんが月命日にやってきて5千円ほど略奪していくこともない。なーるほど。
  彼がこういうことに気づくのは、行ってみてである。やはり現地に足をはこんで、実際をみてみるということは絶対に必要なことなのである。勿論、実際をみることは実はむずかしい。昔ロンドンに留学しているのに、紳士の国イギリスなどと云っていた学者たちが多かった。しかしながら、どこみてるんじゃい?と、年長者を敬う国の若輩我輩は思わなかったが、学者には幻滅する契機になったことは否定できない。なーるほど。って?