panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

季節は秋になった

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  函館から帰ってきたら、昨夜は嫌に暑かった。でも今日は適当というか、首都圏も秋だ。北海道は布団に毛布が必要だったから、もう秋だったが、わずかな期間で関東に達したわけである。ようやくあの、誰もが不幸なニーマルニーマルとして思い出す、オリンピックはなかったが、コロナはあったくそ暑い夏が終わった。慶賀に存じまする。

  北海道に帰っていると、ほとんどこっちのことは忘れてしまう。帰ってきて思い出して少しうんざりする。うんざりというよりは、あらゆる意味での東京的狭さとか都会的不快さとか潤いのかけらもない日常とかに、ややたじろぐ。

  コロナでやっている引退後の予行演習では人と会わないことがストレスでもあり、かつ、喜びでもある。函館では美術や映画やその他いまやCD本体はそっちにあるので、そういう文化生活に慣れて帰ってくると、ますますストレスは強まり、そして喜びも実は減る。なんという逆効果であろうか。ますますそう思うこの頃なのである。

  今回とくに強く感じたこととして、ものがうまい。スーパーで買ったタコのゆでたのを一口食べて、思わず旨いと声が上がったことに我ながら驚いた。関東でスーパーで買うタコはタコかいなという状態であるのが普通で、形ばかりタコの刺身みたいなのを食べたという感じだが、北海道のミズダコ(大型蛸)は衝撃的なまでにうまい。

  タコのゆで方というのは非常に職人的な技が必要だということを東京のスーパーの連中は知るまい。昔は、函館でなく、鹿部という近郊の漁村のある業者のゆで方が一部では確実に絶賛されていた。そこで茹でたタコをもらったときには、そこのタコだと、今もいる愚母が言ったものであった。今回、そのことを久しぶりに思い出した。

  ゼラチンが残る皮と身の間の部分がきちんとあり、しかも塩分が抜群の濃度であり、かつ湯で時間が絶妙だった。かくして、旨いという言葉がひとりでに出てきた。関東では茹では固すぎ、ゼラチンのうまみはなく、塩分は限りなく極端なことが多い。改めて、こんなレベルをスーパーの200円もしない値段で提供している函館の食生活のよろこびを伝えなければと伝道師のように切迫して思ったわけなのである。