panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

指導層の無能無力無残

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  新型コロナ対応についてはいろんなことがどこでもかしこでも云われており、こちらが何かいうべきことはないが、東北の震災時同様、科学者と称するものたち、科学者の代表と評される政府の専門家会議のメンバーたち、またテレビのコメンテーターの大群(とはいえ今は自宅からスカイプ状のもので発信だが)、その他、ネットの記事やそれを書いている人々、そして勿論政府の広報部のような官房長官を含む顔出し班?なども含めて、これらを自宅に強制的にいることによって仕方なく通観して思うのは、相変わらず、知性があるのかどうか、わからないということである。

  専門的能力はあると自称している人々が、これほど普遍的知としての科学の権威を背景に論じている態であるにもかかわらず、ほとんど一致するところがないというのはどういうことだろうか。震災のときも、出てくる有力大学の先生方のいうことがバラバラだった。理系は科学者だと思っていたら、真理的合意がなかったので、その後、我輩の大学・科学者への軽蔑は一層強まった。

  こういうときは政治のトップエリートたちが今後の政治的道筋を示して、それに対する技術的知見の提供に科学者の影響力を限るべきで、専門家の意見にしたがって解決策をさぐるべきではないのではないか。どうせバラバラな、一見もっともらしい意見しか云わないのだから、専門の科学者集団は。

  だから真の問題は、全然想像力のない政治エリートにあるというべきか。想像力とはこの場合、リアリズムである。どうやったら人命と経済のバランスをとるのか。その具体的プロセスをちょっとでも先をみて常識的に想像できるということが、どうも、政治家にも高級官僚にも欠けているとしかみえない。そもそも政府は何か発信しているのだろうか。

  忖度、無能、学校秀才、出世主義、ことなかれ主義、、、などいろんな言葉がいま浮かんでくるが、日本社会だけでなく、世界にむけても自分たちのやっていることの正当性を発信できない日本のエリートたちをみていると、ほとんど、自閉的な気分になる。

  でも自粛要請にぴったりな気分ではないか。自閉って。・・・おあとがよろしいようで。

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