panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

5月も終わる

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(ゴッホ作)

  単調極まりない生活に、いつものように単純明快な単調という不満の決まり文句をつけ続けてきた我輩の5月も(当然他の人々の5月はどうかわからない)、今日が最終日。でも来月も単調なのだろうか。絶望的な感じがする。そのせいか寝ながら歯ぎしりしているのかもしれない。朝、口全体がおかしい。上下の歯のかみ合わせが起床のときはうまくいかない。

  宣言は解除されたが、だからといっていそいそ外に出ていくほど無謀な行為をするような人間ではないからでもあるが、実際散歩してみても普通の街ではそれほどの人出はない。市民は政府の適当な「空気読み」に敏感になってしまって、そうは簡単にその手に乗るかと思っているのかもしれない。政府はこっちの空気を読み、こっちも政府の思惑を読み、かくしてどこに科学的真実というのがあるのか、きわめて臆病になっているわけである。

  専門家が専門家であるのは知識と研鑽のおかげだが、その専門家たちのなかでさらに選ばれた専門家であるためには、知識も研鑽も及ばぬ能力が必要になるということであって、そのため非専門家の我々はそうした「専門家オブ専門家達」を信用していいのかについて迷うということになってしまった(ようだ)。

  仕方ないので、フルトヴェングラーのベト君交響曲全集を買って、いい機会だから聴いているわけだが、もともと持っているのである。ただフルヴェン全集としてもっているので大部になり、探すのに時間がかかるので、買ってみたのである。5枚で済むし安い。9番は有名なバイロイトの9番ではなく、と書いて見てみたら、まさにバイロイトの9番だった。当然これは単品でももってるし、ま、仕方ないか。

  英雄以外は大体聴いた。すぐ聴き終えることができるわけだが、このためにベト君が50数年の人生を要したかと思うと、相当な冒瀆のような気がして鬱陶しくもなるが、特段ベト君が好きでもないのにこんなことを思うというのが、単調人生の萎縮感性なのかもしれない。ちなみにベト君の交響曲短調なのは5番と9番だけである。お、丹頂鶴の歌は9番にはない。あるのは歓喜の歌である。しかし監禁の歌のような気もするのが、単調生活のなせるわざなのだろうか。ね。


Beethoven by W.Furtwängler - Symphonies n°1,2,3,4,5,6,7,8,9 + Presentation (Century’s recording)