panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

きれいな本なのにきれいには映らない

 f:id:panacho:20190612161207j:plain

 ライオンと綴って、ライアンと読むこの社会学者はポキのなかでは評価は低い。この本も、翻訳一般の読みにくさもあって、一貫していないようで、読むのが苦しい。しかしただひとつ評価したいのは、最初彼は監視国家からはじめ、政治的な面で監視をとらえていたものが、だんだんと監視社会論へ移り、とうとう監視文化にいたったその経緯である。

 文化であれば普通の人びともまた、監視対象であるばかりでなく、監視を行う側でもあるという含意が、ここには、ある。生産や政治的主義主張が人のアイデンティティの根拠であることをやめ、消費主義的な自己呈示が優勢になった「デジタルな近代」にいては、監視する、されるの関係は非常に複雑になっている。いいかえると、監視という言葉はある意味もう使い物にならないのかもしれない。

 という理解ある態度を言葉の上ではしているポキだが、はっきりいって怒っている。このデジタル近代に。すべてが融解するというバウマン的ビジョンがこれほど正確だったとは夢にも思わなかった。監視される我々が監視の材料を率先して提供する時代に、自己情報保護なんかも一緒に亢進する、というこのわけのわからなさも、そうした溶ける時代の現象なのだということだろう。