panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

楽天カードの怪


  メールで楽天カードが使われたと来たので、不審に思い、メールで返答せず、電話番号があったのでかけてみると、二つとも使われていないものだった。これって明らかに何かの偽メールなのではないか。だってこのカード、もってないし。
  怖いですなあ。
  写真が今度きて、ヴィヴァ君のほぼ完成体となったコレクションの最後となった1714年版オルランド
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  平尾透『統合主義』ミネルヴァ書房を読んだ。二度目だが、付論Ⅱの「国民国家の概念」の章が爽快爽快。国民国家概念がいかに識者によって適当に使われているかをざあーと概観したもので、これまで気づかなかったのが悔やまれる。大小の思想家、学者、評論家をなで斬りにしている。
  平尾は奈良産業大学という聞いたことのないような大学の教師を終えていまは退職しているはずだが、京大出身の政治哲学者である。もともとポキが知っていたのは『統合史観』という、統合主義の歴史版のほうで、こっちがずっと早く出版された。史観のあとでその政治論というか政治哲学を、史観の13年後に彫琢(ちょうたく)したものが統合主義である。
  まったく政治哲学界からは無視され、吉か凶かだと史観出版時、統合史観についての評価が両極端のどちらかだと思っていたようだが、完全に「凶であった。もちろん、たいそう残念である」(152頁)と統合主義の段階ではあきらめている。
  でも大変面白く、専門ではないが、史観というのがついているので手にとってみた本で偶然知ったのだが、これは相当なレベルの研究書である。
  さて平尾の国民国家の定義は「民族国家」というものである。国民主権国家でも、民主国家でもない。その出発点、だから民族形成のはじまりは絶対王政である。絶対王政以降が民族国家、つまり普通の言い方だと国民国家になる。
  これを福井憲彦学習院学長)、福田和也五味文彦(東大)、浦部法穂(神戸大)、中西寛(京大)、樋口陽一(東大)、山室信一(京大)、柄谷行人川勝平太(現知事)、佐伯啓思(京大)、西川長夫(立命大)、猪口孝(東大)、山崎正和(阪大)、鷲田清一(阪大学長)、もうやめるが、錚々たる学者の定義を木っ端みじんにたたきつぶし、場合によっては一人で複数のというか矛盾した定義をしているような混乱もついでに明らかにしている。笑える。
  民族的主権国家、民族的領域的主権国家というのが彼の定義だが、普通は19世紀の仏革命以降の国家を国民国家というのが多い。彼はこれに反対しているわけである。
  ポキの場合はどうだったかというと、近代国家は主権国家以降。つまり絶対王政以降。この点では平尾と同じ。ただしこれは君主主権の段階。それが仏革命以降19世紀を通じて国民主権に転換することで、国民国家が成立する。近代国家とはだから国民国家なのではなく、主権的領域的国家のことなのである。
  ポキは君主主権から国民主権への転換を重視するが、トクヴィル・テーゼにしたがっているので、その転換は何か民主化の結果だとみるのでなく、たんに旧体制下での国家権力の増大には限界があったので、国民主権に転換してさらに国家権力の量的拡大が可能になったという理解をしている。つまり国家権力の拡大への要求がフランス革命の勃発や国民主権の成立を要請した、というふうに理解する。つまり近代国家は民主国家なのではない。それは国家権力の増大を必要とする状況の産物であって、要は戦争国家なのである。戦争勝利のために国家の力を拡大する必要にせまられて君主主権は放棄されるし、絶対主義は倒れるのである。でもその結果生まれた国民国家が民主国家でなくてはならないということを考えているのではない。近代国家は戦争国家なのだから、戦争に勝てればどういう体制でもいいのだ。ただ国民主権のほうがどうも戦争動員力が高いので、期せずして(?)国民主権化していくというだけのことだと考えている。
  ともあれ、国民ではなく、はっきりと民族という言葉を使うのが平尾だが、この点は少し考えてみたい。