panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

12日ぶりの職場にて

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  ったくそういうことである。とうとうまた4月がはじまった。仕事の準備にやってきたのだが、やる気が弱い。出てはいるが、弱い。ピップエレキバン程度の弱さである。

 でもやらなければならないので、一心不乱にがんばっているのである。一身腐乱ともいう。ちなみに、一心太助は時代劇である。

 こうやってみると、吉永小百合が一人田舎っぽいことがわかる。昨夜、ラジオで、キキキリンとの長い交遊を語っていた吉永小百合だが(キキキリンと仲がよかったというのは意外であるが、芸能世界で長くやるには交遊が大切なんだね)、ポキは時代は一致しないが、芦川いずみをテレビでその映画をみて、これが戦後日活青春映画(だと思うが)の最大のヒロインだと考える。芦川は右から三人目。

 そして泉雅子は右から二番目。ポキが就職したとき、そばのビルが泉雅子のビルだと聞いて、なぜかとても嬉しかったことを思い出す。もうそのころには泉雅子を覚えている人も少なかったのだが。

 でもなぜポキは自分の世代以前の人びとをきちんと把握しているのか。あまりに趣味も知識も教養もない若人を前にして、いつも不思議に思う。あれほど昔をたどることのむずかしかった時代になぜその昔をよく知っているのか。

 どうしたら知識を伝達できるかを考える場合に、その提供される゛知識を備えるサイドボードというか(サイドボードは昔の家の居間に置かれてグラスだの空けたオールドパーの瓶なんかを飾っておいた棚である。当然ながら硝子で仕切られ、段違いみたいになっていて、庶民の書院様式であった)、大地というか、そんなものを育むのはなんなのか。個人責任だけではなく、もっと時代的社会的なものが関係しているかもしれないが、ある意味、個人の努力でかなりの程度はどうにでもなるものだと思うのだが。

 ということで個人的帰責(この言葉、変換できなかった)になったところで、売買。いや、バイバイ。