panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ご隠居から嫌々ながらの社会人へ

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 来週から本格的な仕事である。もうすっかり後退的になっているこのご隠居的メンタリティをもとに戻し、そしてあまつさえ何かを伝えることの無力感にさいなまれつつ、最後の週末を過ごしているわけであるが、失くしものがあったりしてバタバタしてしまった。モスラの羽ばたきのような。

 仕方ないので電車の行きかえりにジークムント・バウマン最後の著作を読んで、終わらないので(当然ながら)家でも読んだ。レトロピアという概念があることを初めて知る。ユートピアの反対がレトロピアで、未来志向ではなく、かつてあったかもしれない幻想としての過去(過去は実は比較的自由に創作できる)に寄り添うような流体的近代(つまり現在の我々のこと)のあり方を云う言葉である。

 ホッブズへの回帰(つまり国家が安定と秩序をつくりだせないような万人の万人に対する闘争状態への回帰)、部族(同族)主義への回帰、不平等への回帰、そして子宮への回帰という4章からこのレトロピアが照射されている。未来が進歩としてでなく、恐怖と喪失を意味するようなポストモダン状況がそこでは活写されているが、隔靴掻痒なところもあって、でも90歳くらいの老社会学者の作品でもあり、その限りではかなりよく問題が描出されている。

 とくに国家が人間の暴力性を抑えきれず、現在が日々の戦場であり、そこでは我々は「戦争の兵士」となって生きるよう仕込まれ、促されている。そうした促しを進めるのは市場、学校教師、職場の上司、そしてメディアである。その結果、我々は、国家の提供する制服すら奪われて(つまり安全保障や安心感に頼ることができない状態で)「競争する個人」(58頁)と呼ばれる存在となって、みな互いに競争相手である世界のなかで「無力感の不安」をかかえ、人間の尊厳を否定するような迫害にさらされ、絶望的な戦いを戦っているということになる。

 指導的な教育機関である大学はそういう状況をむしろ激化させるものであって、「競争の熱狂」に人々を引きずりこむものであるとバウマンは述べる。うーん。