panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

プレイフルネス


  アメリカ政治史のいくつかの古典を書いたホフスタッターは知識人を定義して、知識を求めて生きるものとした。この知識崇拝はそのままでは堅苦しく、つまらなく、学者くさいものになってしまうので、他方でそうさせないためのものが必要だと考えた。それがプレイフルネスである。
  プレイフルネスは遊び心と訳されているが、娯楽愛好とかただたんに遊びと訳されてもいいだろう。プレイフルネスを知らない知識人は結局、オリジナルな知識を修めることができない、というのが彼の判断だった。
  昨日の続きとして。−−−−ポキはプレイフルネスの欠けた人々に囲まれて生きているが、心から同感。と称して、朝からヴィヴァ君的娯楽、つまりプレイフルネスにいそしんでいるのである。正当化なのか、いいわけなのか。って、・・・同じじゃね?