panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

未来を思いわずらう心は不幸である


  これはセネカの言葉である。キケロは、原文(かつての翻訳のまま)では、気違いは満足しない、賢者は現にあるものに満足し、決して自分に不平をいうことはない、と述べている。
  ポキが社会学者マッキーヴァーのことばを引用して「現在の手段化」と呼んでいる事態への批判と同じことを2000年以上前の地中海の人々が云っていたという風に考えられる。
  ソクラテスの、汝自身を知れの前には、「汝のことを行い」という前段がある。余計な企てをしないためには、自分自身を知ることが大切であるという意味合いの言葉だったとある解釈は云っている。
  エピクロスは未来のへ洞察と用意がなくても、人は賢者になれると云っている。
  そして、モンテーニュは、「我々は決して我々のもとにいない。つねにそれを越えている」と人間の不幸を語っている。
  置かれた場所で咲きなさい、とは先年亡くなった関西のカトリック系女子大の学長修道女の言葉だった。キリスト教まで似たようなことを云っているわけだが、実は禅の公案でもほぼ同じ趣旨のことを繰り返し述べている。公案の公式とポキが云っているものは、深遠な世界の真理に思い煩う前に、目の前にある仕事をまずはなせということである。隠れて生きよというデカルトの標語のもとになったオヴィディウスも、同じことを説いていたと思う。
  ということで、ポキが102年かかってたどりついた公式、最近はマッキーヴァーを使って云っているが、これは古今東西の1つの真理なのではないかと考える次第である。
  ちなみに、セネカキケロソクラテスなどは、モンテーニュの随想録(エセー)のなかでまとめられている。第1巻第3章「我々の感情は我々をこ越えてゆくこと」の章。関根秀雄訳。
  このブログもだんだんモンテーニュっぽくなっていってるかもしれないが、昔読んだはずのこんな最初のところを忘れて、ようやく自らたどり着いたと思った人生の真理が、すでに一度は読まれていたことのなかにあったということを知るのは、ちょっちがっかりかも。でもここにも教訓はある。すなわち、古い本はやはり捨てずにとっておこう。
  ちなみに、なぜこんなことを書いたというと、コーチの宮川サエ選手への暴行の映像があまりにひどいからである。明日に向かって現在をむなしくする現今のスポーツ精神をたたきのめしたい、とポキは思っているわけである。