panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

屹立するヴィヴァルディ


  非常に道路はすいている。職場にも人はいない。いることはいるが、いないに等しい。
  昔書いたようにナポリ派のオペラというので探すと一人しか実質的には見つからない。その起源と流行は同じ人物なのである。彼がつくって彼が広めたものがナポリ派と呼ばれる。その後の研究では大小の作曲家が知られるようになってきたが、基本は変わらない。
  バロックオペラ、ポキのいい方では前古典派オペラではやはりヴィヴルディだけが突出しているように思える。ヴィンチもかなりなところにいくが、なにせ30歳くらいで死んだのではないか。だから残されたものは少ない。さらにハッセ、グラウン、カルダーラなども悪くはないが、水準が違う感じ。
  ということでここ一週間で山のように届いたヴィヴァ君を聴きながら、至福ってこれかあと思い至る。どんな凡庸な曲想でもヴィヴァ君では聴ける。そこが違う。
  しかもマンドリンというバッハが一度も使わなかった楽器が調和を乱す。それが古典派以降の楽曲を基準にすれば、どうしようもないと思われるところだし、そう思ってきたのだが、声がそこにはいると、全然印象が違ってくる。声の調和性を楽器が乱すところに劇的緊張が生れるし、ゆっくりした曲ではみごとな哀切と抒情が生れる。うーん。
  孤独のグルメではないが、孤独なクラシック鑑賞者として100年も生きてきた到達点がここにあるのだろうか。いつかバッハに戻れるのだろうか。
  ヴィヴァ君の不調和のなかの調和は、ちょうどフィリピンの刑務所のようなのである。わかってくれなくても、いい。でも結構、調和しているようにみえる、、、でしょ。
  いまポキは30日にあげたジュスティーノの最後部分を聴いているのだが、誰かちゃんと聴いているのだろうか。やはりヴィヴァ君まで達するには、100年もかけて聴き続けてきた経験の重みとやらが必要なのだろうか。つくづく、池まで馬を連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない、という教訓を思う午前11時半。