panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

風邪気味なのか-----あるいは、ハートに気をつけて。


  我輩の高い鼻の右らへんが昨日から触ると痛く、よく鼻をかんでいた。勿論、鼻をかむのは犬ではない。猫でもないし、パンダでもない。自慢ではないが、うちにパンダはいない。いうまでもなく、亀もタコもいない。そもそも水中にいるものがどうして我輩の高い鼻をかむことができようか。ただ何度も自分で鼻をかんでいただけである。かんだのは鼻紙(古いか)であって、生き物ではない。うーん。・・・時間の無駄遣いだった。
  それで夕方、なんだか気づくとベッドで寝ていたわけだが、風邪気味なのかもしれないとさっき気づく。体調は悪くないし、気分もいい。初期症状を、小人閑居という作戦で結果的に、克服したということであろうか。さすが無用の用というか用の美といおうか、何とでもいって結構だが、さすがである。
  社会主義体制は東ドイツなんかを我輩は典型だと思うのだが、密告社会である。文化大革命時代の中国もそうだし、現在の北朝鮮もいうまでもなくそうだろう。ソ連についてはいうまでもない。日本も町内会の隣組は戦前か戦中、相互監視装置としてできたものである(と思う)。密告というのは専制的な国家体制の18番だが、マッカーシーの時代のアメリカも密告が流行った。だから自由体制でも弱い程度にはありうる。
  岡田先生もおっしゃっている。中国では妻も敵なりと。妻の裏切りは日常茶飯である。
  中国では古来、心中はなかった。あるいは情死。日本では曽根崎心中を代表に情死はある種の美学や文化の粋だったが、中国では男女間の強い結びつきというのがそもそもないのである。だから近代日本の影響の下で、心中がはじめて中国で生じたとき、これは日本化の例だとされたようである。そのくらい、中国人には、人間不信が強い。夫婦ですら安らぐことができないということは、他の人間関係、友情からはじまって資本主義を支える信用とか信頼というものが中国にはそもそも育たなかったということを意味する。
  先週、とある中国人に、本当に中国語で情感ある感情表現ができるのかと聞いてみたのだが、岡田先生も、「言葉が未発達なのではないかと思う」(著作集第5巻95頁)とあっさり一蹴している。我輩はその質問を考えた末に云ってみたのだが、やはり核心をつきすぎていたのか。
  日本の若人は勉強もしないし、教養もない。しかしやはり世界的にみると圧倒的に上質な人間なのである。これは、日本語の3種のことばを使い分ける能力がそれに深く関係しているはずである。疲れたなあと疲れましたと疲れたわと疲れたよねと疲れるわーという風に、文脈と人間関係とそして細かな疲れ具合に応じて、日本人は微妙に現実に形を与える。これは考えてみれば、恐ろしく文化的な能力の行使なのである。
  しかしこまったこともある。写真の二人。我輩は幼少時よりなんだか沖雅也と聞くと、別のエコーがしていたのである。それがもう一人の顔もよく似た彼のことだったと最近知った。家人1はこの彼を知っていた。ポールシカポーレを歌っていた歌手。でも我輩は歌は覚えていてるが、この人のことはただちには思いだせない。でも名前があまりにも似ていた。顔もだし。我輩のこの混乱は日本語のせいでない感じもするが、ま、そこはひとつ、、、、。
  なお表題は個人的なメッセージである。・・・千原セイジではない。また時間の無駄遣い。