panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

これほど残暑感のない秋は久しぶり


  やはり体は正直である。昨夜安保法案可決までテレビを見ていたので昼近くになって起きた。でも朝飯は食べていて、二度寝二度寝でも、できるのは疲れている証拠。本当に疲れていないと二度寝はできない。老人っていやあねえ。
  秋タケナワじゃね?我輩は秋田と富山と北海道で秋をすでに生きてきたので、東京で夏に逆戻りするのを恐れていたが、例年にはなく、秋が秋らしく始まった。
  我輩の人生においては農村的田舎は一つの課題であった。農村的生き方が一番不可解なのである。多くの人はもっと日本を知っているだろうが、我輩には日本を知るということが結構難しかった。北海道生まれに日本が理解できるのか。という問題は確かにある。他の道産子と会ってもそんな苦悩は感じないが、我輩はそう思ってきたのである。
  昔、人類学者山口昌男に日本の農村的風俗がわかるのか。という論難があった。事実、きっとわからなかったのではないか。大泉洋と並んで彼は突拍子もない人間であったし、それは幾分、規律不十分感万全のJR北海道的なところと共通している。地味にそなえる農民的な心性という、今日的先端企業戦士の根底にも流れる血を大泉先生、山口先生、JR北海道先生は共有していない。かくいう我輩なんか全く共有どころか、ない。論理的推論によってしか二宮尊徳的世直しの論理を触知できないありさまなのである。
  というわけで、写真は砺波平野。散居村。
  昨日届いた音楽の捧げ物を聴きながら。まったく古典的な形の演奏だが、このごろはかっちり構造をつかまえた伝統的な奏法が好きになった。オーレル・ニコレがフルート、クリスチアーヌ・ジャコテがチェンバロ。この二人のコンビで育ったようなものなのだが、あまりに空気になっていて昔はよく評価できなかったのである。