panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

江戸時代化と中国化


  柄谷行人の『憲法の無意識』という岩波新書を要約したような、『文学界』(雑誌)に出た彼のインタビューを読んで感想を云えと、政治思想の長老がいうので、目を通した。柄谷75歳。よくやってると思うが、これは与那覇潤という若い学者が数年前提示した江戸時代化と中国化とよく似ている。
  要するに憲法九条が容易に変わらないのは(国民投票をすれば絶対に九条は変わらないと柄谷は見るが、我輩もそう思う。ただし長老はそれに懐疑的)、徳川時代に刷り込まれた日本人の無意識がそうなっているからだというもの。・・・と思うが。つまりなぜこれほど改憲が難しいかという絶望(我輩の場合。柄谷はサヨクだから絶望はしていないだろうが)が歴史への遡行を求めているわけである。
  与那覇はこれを江戸時代化と呼んで、古くは鎌倉幕府もそうだといっている。要するに日本的農業的土着性にこだわる世界の田舎もの日本人の原点であるローカル志向である。他方、平氏は交易重視のグローバル派でこれが中国化である。中国化とは日本を舞台にして表現されたグローバル化のことである。
  柄谷は九条はこの江戸時代化にマッチしているというわけである。カントやマルクスフロイトなんかを持ち出して論じているが、要は、そういうことである。
  平氏が勝っていれば、日本の日本らしさはなくなっており、中国と完全にではないが同じような他の朝貢国家と並列する国家になっていただろう。だから、ここが一つの分岐点だった。
  ということをいえば、おざなりだろうか。いずれにしても凄惨な鎌倉幕府政府は別にして、江戸時代というのは考えてみれば、とてつもない壮大な人類の一つの試みだったんだなあと思う。この時代にすでに九条というポストモダンな(ただしありえないような)体制構想を打ち出すことができたんだから。
  ということで今日も朝から出勤の予定である。連続5日の出勤はまさに煉獄の責め苦なのか。・・・ふふふ。脳使わないもんで、今日は快調だ。