panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

戦後的思考の最終的崩壊-----2002・9・17と2014・9・11


  もう書くことはないのだが、このままだとブログのトップがしばらく昆虫食的驚愕顔のままになってしまう某君のために、一つだけ新しいのを。
  今日は9月11日である。ま、重要な日である。紀子さまの誕生日である。ニューヨークでは9・11である。ま、他にもあるだろう。
  さて朝日新聞社長がとうとう謝罪した。ダブル吉田に翻弄されたようなものだが、今日の会見の主たる内容は吉田調書である。慰安婦問題・河野談話関係のインチキ吉田のほうではない。
  しかし結構、象徴的な日になるのではないか。我輩もカンボジアに出発した9月1日をもって朝日講読は中止したした(ただし慰安婦問題が原因ではない。朝日の悪いところはもっとある)。今日行った散髪屋でも朝日をとりやめたといっていた。そもそも朝日は、家人1には、生まれたときからとっていた新聞である(ただし家人1が生まれてすぐ電話して朝日をとり始めたわけでは勿論ない。お釈迦さまじゃあるまいし。親がとっていたわけで)。それをやめるというのは、したがって、総じていえば、わが家にとっても印象的な行為なのである。
  我輩についていうと、我輩の実家ではずっと毎日をとっていた。毎日が毎日来たわけである。北海道新聞のような地方紙を依然軽く軽蔑しているのは、悲しいかなその慣性であろう(とはいえ父も後年は知人の死亡蘭をみるため、より地域密着的な北海道新聞をとっていて、実家は今にいたる)。
  ともあれ朝日は勤めてからとった。家人1もいることだし。学生院生時代に新聞を読んだことはない。ゴシップは若輩時代の我輩は嫌いだった。・・・って新聞がゴシップにみえるほど、ヤングな我輩はシリアスな本しか読まなかったのである。20代のころ週刊誌も漫画雑誌もほぼ読んだことはない。
  朝日は天下の進歩的知識人の意見を代表するものである。それがここまでさまざまに追い込まれたことは、朝日の怠慢というか、朝日の記者の質が相当悪いということ(ということは他の新聞記者も同様だと我輩は推測している。若いころにサツ回りをさせるってどういうことよ?もともと勉強しないジャーナリストの卵をもっと不勉強にする新聞社のとほほなシステムなのだなあ)をもっと言い募っていいように思うが、ともあれ、それが歴史的にシンボライズするのは、左翼文化の決定的誤謬と凋落である。結構結構。
  そしてやはり2002年9月17日、我輩がちょうど今回と同じ研修でアユタヤにいて、ホテルの部屋でびっくりしながら眺めた、金正日が日本人拉致を認めたときが、もともと相当に弱ってはいても、まだ半信半疑であった左翼文化思潮の問題が急激かつ決定的に浮上し白日のもとにさらされたときだった。これが我輩には左翼文化思潮の凋落の始まりだったといえる。実に衝撃的だった。陰謀史観とか朝日は云っており、拉致などは空想だと未熟な我輩は思っていたからである。それまで読んだこともなかった産経新聞が結局は正しかったのである。
  ということでそれから12年。我輩的にはタイとカンボジアにかかわる二つの年号の間に、戦後的思考が終わったのである。
  写真はタイ観光庁のアユタヤ写真。
  ま、これだけ書けば、驚愕顔のインパクトは弱まるだろうことを期待して。