panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

二つの吉田、二つの山口


  2014年夏、吉田といえば吉田調書(福島原発)と吉田証言(慰安婦問題)。そして2014年秋、山口といえば洋子と淑子である。
  今日は中条きよし歌手の「うそ」とか五木ひろし歌手のたそがれよこはまの作詞家山口洋子の訃報報道があって、相当時間をとって回顧されていた。うーん。山口淑子とはくらべようもないのに、これでは事の軽重がわからないではないか。李香蘭は大スターというだけでなく、戦前戦中日中関係のシンボルなのだから。
  さてやはり李香蘭3時のあなたの司会者だったようだが、曜日によって高峰三枝子が司会をしていた。うーん。なつかしい。しかも二人は中国の北(満洲)と南(上海)のスターだった。アホな中学生は帰宅後(なにせ我輩は書道部、部活なんて週一の教養講座みたいなもので、たいていはいつも大人しく直帰していた)、かつてそこにあった中国なるものの生きた日本的反映を見ていたわけなのであった。20代の我輩はゴシップ嫌いだったが、10代の若輩我輩は好きだったということなのか。ゴシップ?
  とか心は千々に乱れて、何となく悔しく思っていると、夜10時からのTBSラジオ山口淑子の特集をしている。風呂で聞き、自室で聞き、そして聞きながらブログを書くことにした。何の因果でもないが。いまは遠藤誉という女性中国観察者(もともとは物理学者だと思うが)が中国における李香蘭の歴史的意義を論じている。遠藤先生は我輩の好きな観察者である。
  三時のあなたどころか、いまは世界中が惨事のさなかになるなかで、もっと集約された惨事の経験者二人が、午後3時にテレビでいわゆるお茶の間に届けたワイドショーはいまから考えると、中学生にはいろんな教養をつけることのできた番組だった。ゴシップ以上のものがあったと思う。・・・なるほどとなると、フジテレビも当初はバカではなかったということであるが、いまは完全に、、、。
  ともあれ、他方では、この15年戦争当時生まれた名曲の作曲家たちは音楽による国家的動員の一翼をになっていたが、イエライシャンだの蘇州夜曲だのシナの夜だの、信じられないくらい中国を美化して「やった」わけで、ありもしない理想的中国の幻想をふりまいて、朝日新聞的贖罪世界観という戦後の後遺症をもたらしたともいえないわけではない。戦争や政治と芸術とのひねくれた関係の一つであるね。
  なお我輩には李香蘭が美人にみえたためしはないのだが。美人だったのだろうか。難問である。
  ちなみに、山形で訛りながら卒業をめざしている穏健な西〇派氏はみんごと試験をうけたのであろうか。心配である。鎌倉自動車学校を第二段階で、、、、ってくどいか。というか、励みにはならんかねえ。