panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

憲法裁判所によって失職?----タイ政治の不可思議


  タイには憲法裁判所がある。ドイツやフランス、イタリアにもある。だからあって当然ともいえるが、タイ程度の中進国でこの制度が機能するはずがない。政争の道具になるだけではないかと思うが、今回は、インラック側の敗北である。というか、いつもタクシン派(インラック首相の兄ね)がこの制度でバッシングされるという構造になっている。なぜなら、体制派(バンコクの、知識人を含むエスタブリッシュメント)は反タクシン派だから。
  バンコク対田舎という構図は、要は、グローバル時代の各国においては、都市国家国民国家の争いともいえるだろう。つまりは突出した「首都市場圏」(大塚久雄の概念である)が「局地市場」を食い物にするという「前期的資本」(大塚)の構図なのではないか。グローバル時代の資本主義はまさに近代以前の「高利貸し的資本主義」とよく似ており(現代では「カジノ資本主義」ということもある)、金融や貿易が庶民の日常的生活を浸食する形で極端な富をたくわえるわけである。
  バンコクはだからある意味ではタイではなく、そして田舎にも実はタイ人よりはラオ人が多いわけだから、この対立を押し進めれば、タイランドという国の成り立ちそのものが崩壊するのではないか。というか、もともと崩壊しつつタイと呼ばれた架空の国民国家のなかで、その真実がパンドラの箱のごとく開いていくということなのかもしれない。
  それにしても、父親不在で成長したオバマ君は女性政治家と一緒のときが一番幸福そうにみえる。アジア人好きなのかもしれないが、岡田先生のいう「愛着障害」の気配が濃厚とも思える。

  ちなみに岡田先生の『父という病』も連休中軽く目を通したが、じゃ、母親も病、父親も病なら、どういう家庭がいいのんじゃい?岡田先生を読むと、とてつもなく「よい家庭」というのは不可能なように思えるのだった。そもそも岡田君の家庭史が知りたくもなる。事実、驚いたのはジョルジュ・バタイユの話で、父が梅毒で壮絶にというか苦難の末亡くなるのとバタイユの人生や美意識はまったく相関している。びっくりするくらい。