panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

なぜバンコクに厳しい---と云われる---のか

  我輩がバンコクに厳しいという指摘をいくつか受けて、理由を考えてみる。厳しいかどうかは自分では分からないが、最初に感じた違和感は、街があまり開放的でないということだった。東京から来ればそれは開放感はある。しかし少し住むと、スクンヴィットBTSの高架橋がずっと走り、六本木同様、まっこと鬱陶しい。路線価が高いのでビル化も進み、今に東京みたいに空が狭くなるだろう。屋台も道路沿いに細々あることはあるが、ポツンポツンでかつ交通の絶対的量のため不衛生きわまりない。排ガスと煤煙と騒音が料理の調味料なのだ。おまけに都市化のせいで外が暑い。したがって戸外で食べる爽やかさは、あまり感じじられない。ただ安いだけという印象を受ける。事実、外人はほとんど食べていない。バンコクは夜も早く(働く街だからだ。ハノイの豪快さはない)、遅くまで飲もうとすれば、ゴーゴーバーのある問題的な場所に行くしかないのかもしれない。他にもあることはあるが、スクンヴィットでは閉じこもった---なら東京と同じだ---高いレストランになる。在住者ではない身には、そういうところで使う金は何だかバカらしい気がする。もっと実質があって、アジア的な開放感が金銭面でも保証されているような空間がないと、という思いがする。
  これは実は、ハノイではっきり分かったことだ。旧市街に限ってだが(そこ以外は知らない。でもバスなどから見る限り全市と郊外のド田舎にもあったと思う)、ビアホイとカフェがオープンカフェ状態であちらこちらにある。ホーチミンでもあったが、ちょっと閉鎖的な感じだ。ハノイほどの気持ちよさもない。でも安く気軽に遅くまで飲める空間としては同じだ。ハノイには屋台は屋台で別にあるので、つまり比較すると、バンコクにはこの市民に開かれた安価で庶民的な公共の場がないということなのである。ビアホイもカフェも大木の下の四辻にあるのもある。清涼感がある。排ガスはきつめだが、風が吹くので気にならなかった。
  我輩が求めていたのはこれだったかもしれない。ならパリにもあるということか。でもパリは寒い。解放感の一要素は暑さでもあれば、やはりアジアなのだ。
  さらに、バンコクの一番悪いのは、給仕の頭(ズ)の高さだ。給仕というのが分かっていないので、人から金をとるためにしなければならない接客の基本的態度がかなり欠けていると思う。タイ人の育てられ方が育てられ方なので、致し方ないかもしれないが、他のアジアの国の華人系レストランの頭の低さや、そうでないところの素朴な心遣いみたいなのがないのはやはり不愉快だ。なんか勘違いしている感じがある。きどっているだけで、どうしてそんなのにチップをやる気になるものか。しかしそういうところは最初からサーヴィス料と税金を入れて、請求するのである。そうだろうなあ。二度と行かないし。
  ということで、これまでの首都では、バンコクはランクとしては最低である。今のプノンペンにはまだかろうじて勝つかもしれないが、ま、どっこいどっこい、時間の問題だ(一歩下がって冷静なところを見せているだけで、ほんとはプノンペンの方がいい。不敵なふふふ)。だからバンコクを甘やかすのはやめよう。と理性的に考えているのだが、これって感情論なのかなあ。何故かというと、そういうバンコクのつまらなさは、基本的に近代化の進度の問題だと思うからである。10年前からそうだったというわけではないだろう。10年前は我輩は知っているのであるから。ここ数年なのかもしれない。ならば以上の問題はバンコク固有の問題ではなく、それは加速化する近代化(グローバルな資本主義化)の問題だと考えるのが妥当である。いいかえれば、アジアは早晩こうなるわけだ。悲しい物語だが、前にも云ったように、アジア的では貧困も何も解決しないのだから、そうなるしかない。でもそれは歴史の大きな流れのことであって、今の我々には、バンコクが資本主義に身も心も売り渡した守銭度にみえるのは致し方ないと思う。ってやっぱり厳しいのか。
  無愛想(ふふ、国家的秘密だったかも)、迷信深さ(宝くじの番号を選ぶときの真剣さは呆れるどころか腹立ってくる)、圧倒的無知蒙昧(教育がないとほんとに人間性さえないというコトノヨウデアル。日本では考えられない)、物価(高いだけでなく、価格体系が成り立っていない。食事よりアイスが高いことがある。落語に似た話がある)、貧困(目に見えるのが痛い)、社会格差(これこそタイの癌だ)、大気汚染、我輩は知らないがタイ人の社会的パーソナリティに起因する人間不信(理解しがたさ、信頼性の欠如、仕事相手としては最低)、気位の高さ(中国人並みでは)、幼児性、激情性、素人仕事など、あげればきりがない。他方、いいところは歩き方の鷹揚さ、足の美しさ、さっと笑ってすぐ元に戻る変化(ヘンゲ)ぶり、、、とウーーーン。よく知らないからね。階級による、達成的でない、所属的自信(逆にいえば大半は卑屈側)、富の偏在による圧倒的な豪華さ(ほとんど田舎のあんちゃんレベルの金遣い。これが庶民では同じく無軌道な金遣い)、会社的一体感の不足からくる下位の柔軟性、宣伝・装飾能力などか(下を見よ)。東南アジアの資本主義の突端としての戦略的価値からして企業がタイに投資するのは分かるが、そしてその結果消費文化にかかわる日本関係の小企業の賑わいもうなづけるが、それ以上の文化的関心を寄せるような国とはいえない。そのことがなんとなく分かったのは、まずは収穫だった。でないと一生いいんじゃないかと幻想をもって日本で暮らすことになったろう。日本の再発見もある程度できたし。でも帰ると嫌になるんだよなあ。どっこいどっこいなんだよ、タイ人も日本人も、というのが、我輩、定住型漂泊者の偽らざる感想なのである。しかしこれは秘密である。口外しないように。ってバカか、我輩。
  エンポリの今年のテーマは魚。毎年こうして豪華にやるらしく、今年はおとなしめだったというので、驚いた。