panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

バタヤンを忘れない


  リスク社会論の150頁のこの本を5日間で二度読んだ。教科書的に書かれているが、云っていることは独創的な、最前線の整理である。こういう整理は普通の人にはできない。ある意味、どの学者も整理に整理を重ねながら、新しい展望を開くわけで。展望でなく、健忘に陥る場合もあり、むしろこのほうが一般的だ。二度読むと、全体の結構がわかるようになる。
  ということで今日の仕事はまず済んだ。忘れていたわけではないが、田端義夫先生逝去を悼み、写真を掲載。このCDではないが、2枚組を一年くらい前に購入した。94歳。こういう歌が演歌ではなく、流行歌と呼ばれていた時代の最大のスターの一人だったと思うが、一生あのギターで通した職人気質がなんとも云いしれない感銘を与える。バッハも好きだが、同時にバタヤンも好きとは、やはりお里が知れようか。小学校時代からだから、バッハより古い。
  ちなみに、嘘つくなと云われそうだが(そして事実これが一番真実に近いわけだが。というのもバタヤンは白人ではないわけで)、バタヤンに似たオジもいる。存命である。
  ふふふ。兄弟の多い昔の家庭には、ヘストンからバタヤンまでいて、まっこと賑やかですなあ。
  ウィキより。
  「『3時のあなた』の人気企画であった「おふくろ談義」の第1回のゲストが田端で、話の途中で司会の高峰三枝子は思わず号泣してしまい、田端もそれにもらい泣きしてしまった」。話の内容は大体想像できる。そういう時代の学校を出ていない人々の話であるからして。でも、ある人風にいえば、それは、いまでは失われた情感の世界なのである。情感。・・・乗艦ではない。貞観でも、上官でもない。って、自分で情感をぶちこわして、どうする?
  ・・・『3時のあなた』も、とてつもなく懐かしい。学校から帰宅すると母親と見ていたのである。下世話の嫌いな弟は別室だったような気がする。田舎の芸能愛好一家(半家?)だったわけである。・・・ということを第3幕目に入ったヘンデルを聴きながら、綴る。
  再びウィキより。
  「大正8年(1919年)三重県松阪市生まれ。3歳の時に父を亡くし、大正14年(1925年)に一家とともに大阪に出て行く。小学校3年の半ばで中退。赤貧のため慢性的な栄養失調であった。トラコーマにかかり徐々に右目の視力を失う。名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公[2]。その間に見たディック・ミネのギターを持ちながら歌うステージに感動し、みずから音の出ないギターを作っては河原で歌い、次第に流行歌の世界に傾倒していく(板切れで作った音の出ないギターを”イター”と呼んでいたそうだ)」。
  タイの話ではありません。・・・よい週末を。