panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

フレイルは「加齢により心身が老い衰えた状態」のことである。

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   こんな凪続きの強いられたインドア生活を続けていると、心身ともに虚弱になってしまう。明日は一週間ぶりに出勤しよう。

  前回のグラウンのところで、今日聴くと、第11トラックにYouTubeがなっているのを発見した。どういうことで入れ替わったのか。それとも最初からこのアリアだけをフィーチャーしていたのか。

  ともあれ、なんだか相当に停滞的な気分である。強いられるというのが、いかんのであるね。抵抗するインドア生活というのもあるわけで。ただ現実に順応するためのインドアというのはたまらなく不快だが、そう思う心持ちも弱っていて、大した怒りにならないという、虚弱な二重奏なのである。

2枚組4000円の弟グラウン


Polydorus, GraunWV B:I:3, Act I Scene 6: Mich sucht der Götter Rache

  去年出たグラウン兄弟の弟の作品。アメリカからのアマゾンのコメントはこういっている。Delightful music reminiscent of JS Bach cantatas but in Opera form with beautiful music passionate and historically informed playing. Very good soloist and a solid orchestra make this very easy to listen to.

  外国から取り寄せて4000円を超える。無事着くとしての話だが。忘れたころにやってくるのだが、YouTubeで聴くだけで我慢できるかが問題だ。所有するとあまり聴かないことも多い。でもあるということは確認できる。いつかどこからか出てくるので。そういう価値があるだろうか。第11トラックがグラウンらしい哀切を感じさせるのだが(YouTubeに戻して聴くと、トラック別に聴けるはず )。

  グラウンはヴィヴァ君を再発見するまでは何としても買い!の対象だったが、いまとなってはドイツの作曲家はやはり同時代のイタリアの華麗な作曲家たちに劣ることは明らかだ。どうするか、買うか買わないか、迷うところである。

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  ちなみに作品番号がこうある。Graun WV B:I:3。いまではカールのほうのグラウンについてこんな複雑な作品番号が振られる時代になったのである。うれしい。1735年以来、上演されたことのないオペラではあるが、ウィーン古典派重視のドイツ音楽史はとてつもない見落としをいつもしているわけである。それはドイツナショナリズムの具現として音楽史を作ったからである。

  そもそもウィーンはドイツか? ベト君もブラームス君もウィーンに行かなければならなかったということの意味を問い直すべきである。

一息つくと、コロナ惨禍下の社会の退屈が待っている


J.Chr. Bach Missa da Requiem and Miserere in B flat major

  2月は最初の日から珍しく忙しかったのだが、先週末でようやく解放される状態となった。慶賀。

  首都圏は陽気もよく、でも室内にいるわけだが、案に反して感染者数の減り方は鈍化し、200人台への下降は進まない。依然300人台前半でウロウロしている。やはりもうこれ以上、急激に減ることはないのかもしれない。この程度が長く続いていくのかもしれない。その間にワクチンがやってきて何とかなる、ということなのかもしれない。

  それにしても飽き飽きしたので、半年以上ぶりに昼を外食しにいったら、たるんだ我輩同様の人々が行列をなしていて、そうでない店に入ると、仕事をしている20代の男が全然マスクをしていない。ずっとしていなかった。これは店の人間が注意するべきものではないのか。アルバイトであろうと店の人間が。

  マスク警察の問題はよく取り上げられるが、自分がその場に居合わせると、やはりかなり不愉快になるということも事実だ。ちき〇〇〇!

  何事もなく帰宅したが、もう体力は残っていなかった。行って帰っただけなのに。宝の山をみつけたが、持ち帰れずしまいに餓死してしまうような昔話の主人公になったような気分なのだった。

  

問題は政治側である

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  この写真は私の澄み切った心持をあらわしている。掲載した次第である。

  ところで感染者数は今週後半には200人台に落ちるはずである。傾向的には。そうなれば、もう非常事態解除手前である。ところが医療状況は少しも改善していないようにみえる。これがネックとなって解除は来月に延びるだろう。

  だから、つまり、問題は医療システムの機能的改善につとめない政治側にある。もう社会に自己規制を求めるのはやめてほしい。自分たちが政策的に何をやっているかを示すべきだ。何を一体やってるんだろう。官僚も政治家も。

株価3万円をこす日


Samuel Mariño - debut album "Care pupille"

  1990年以来である。二度目のイギリス留学の前の年だった。だから、我輩は意気揚々として古びた大国に行ったのである。その年の夏、ギリシアの海岸でイギリス人が愚妻にもう日本はダメだみたいなことを云っているのを遠目でみて、何を世迷言[よまいごと]を云っているのかとクスッと笑ったくらいにしていたのだが、ふふふ、先見の明のない点では人後に落ちない我輩のいつもの愚昧な行為だった。

  ともあれ、30年ぶり高騰を目にすると、どうせ外国人投資家の投機だとはいえ、現今の経済システムのどうしようもない破廉恥ぶりに憤りを覚えるどころか、無気力感が増してくる。これが世界経済というものなのか。

  このデビュー作を買うことにした。声自体がもうおかしい、この歌手は。

勘違い夥しい日々

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  こんな気持ちである。ボノンチーノのPolifemoが届いて聴いたのだが、いっこうに先日のYouTubeの音楽が出てこない。2枚組全体がかなり古い感じの楽曲からなっていて、ボノンチーノ自身がバッハより15歳年上であるということが、とくにこの時代の音楽を考える場合には大きくて、やはり時代の制約を感じさせるものなのだった。この二人のちょうど中間にヴィヴァルディが生まれているのだが、この7,8年ずつの年齢差プラス地域差が音楽に確実に反映しているのである。

  で改めて見てみると、先日のはポルポーラ作曲のポリフェモではないか。大いなる勘違いだった。道理で前に聞いたことのある曲がいくつかあって、アンソロジーの何かで聴いたのであろう。それがポルポーラだったわけだ。うーん。

  注意散漫、美酒爛漫。気を付けたい。老化と思う。どうかと思う。

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  ポルポーラのはcdは全曲盤はなく、アリアがいろんなものに分散して録音されているようである。上のは私の持っていないものだが、もうデジタルでしか買えないし、全曲盤ではない。つまり、全曲盤は、しつこいようだが、ないのである。

  繰り返し検索をかけていたら、このcdが買えた。最後の一枚が340円くらいだった。いま注文した。なんで素直に一発で検索にかからないのだろうか。いずれにしても万が一、既にもっていたとしても、この値段なら構わない。ま、とっても嬉しい。

  ただし外国人評をみると、このcdは最悪の一枚ということのようである。

2月1日に書くのを忘れてしまう


Highlights of Polifemo - Rubén Dubrovsky, Bach Consort Wien

 

  1日には書くというのをよく忘れるようになった。当方もその日から一週間怒涛の日々だったので、そうなってしまうのだが、いずれにしても肉体的な力の減退を感じる。月曜日からまたリモート作業になったのに、いぜん、疲れは抜けない。

  でこのボノンチーノのcdを買うことにした。人材的にはこのYouTubeのほうがいいだろうと思う。ファジョーリが歌っているし。ともあれ名曲が連続しているこのポリフェモであるが、他にcdは出ていないような気がする。ようやくオペラ全曲盤が出たのがむしろ僥倖だという感じ。ルーベン・ドゥブロフスキーというこの指揮者もうまいかもしれない。

  ということで1日の使命を今果たしているところである。

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  1944年の同じウィーンでの演奏がcdとなっていることを発見した。ドイツ語歌唱と銘打たれている。時代であるなあ。

とうとうコロナ倒産が身近にやってきた

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  いまだ一度も出勤できないまま、1月が終わろうとしているが、今日は散髪に行ってきた。これもまた、勇気ある行動のように思える。歯科医にも顔を出したいのだが、歯科医の方は勇気が出ない。つまり、勇気は、我輩において、臨機応変である。

  しかし問題はその先にある。床屋のその先にある、車検をいつも頼んでいるガソリンスタンドが取り壊されているのを発見したのである。コロナ倒産なのではないか。うーん。めっきり通行量が減っている昨今、危機だったのだなあ。気に入った青年が働いていたのだが。

  ショックの大きさを言い表す言葉もない。不立文字という言葉が浮かんでくるが、諸行無常という言葉も口をついて出そうになる。喜びも悲しみも幾年月という映画タイトルも関連して、思い出される。というかこの映画はよく思い出す。関連のいかんにかかわらず、清張の砂の器という、きわめつけの哀しみが胸を去来する。

  果てしなく続くかのごときコロナの呪い。とうとうひしひしと我が身世にふるながめせしまに、という和歌の断片も、無理なくわが記憶中枢を刺激するが、いずれにしても唯我独尊な我が身にもズドーンとやってきた倒産連鎖。悲しい限りである。

さすがにまいるのである

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  ピエン越えてパオンな日々である。ほとんどスーパー以外には出ることがないので、骨ももろくなっているかもしれない。脳はもうろくしているだろう。

  コロナによる自粛には飽き飽きしたが、不要不急の外出はやはり倫理的な歯止めがかかってできないのであるが、何か反不要不急な大義がないかと思っていたら、2月は最初からいろいろ出勤が続くのであった。よかった。

  でもそうなると、やはり仕事は嫌で、仕事するより謹慎してたほうがいいようにも感じてしまい、引き裂かれる自己。ふふふ。教養がたまにほとばしり出るが、出方が衰えた間欠泉のようになったコロナ一年の帰結を思って泣けてくる。

  かくして自粛する喜びも悲しみも幾年月。途絶えない感染者数を最近は手帳に記入することにして、競馬の予想屋のようなことをしているのだが、何になるのだろうか。

1月半ばの2021年謹賀新年

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  例によって忘れていたのである。しかも元旦には函館にいたので、書ける状態にはない。

  帰京して1週間になるのだが、ずっと自粛しているので(リモート会議2回)、体がなまっているというより、腹が御嶽山のように噴火状態である。まことにまずい。でも不要不急の外出は避けるようにと、首相がたどたどしく言うわけだし、コロナにかかるとまずい時期だし(この時期は、そもそも、自宅待機のまま天国に行く公算も高い)、いやになっちゃうわけで、、、、。

  という次第で2021年は始まったが、人と会うことがないことはストレスフリーではあるが、その分、夢みたいな、白昼夢のようなものがおそってきて、昔の人のことを思い出して苦い思い出にひたることもある。昨日のリモート会議の冒頭でその人が転倒して頭をぶつけ元旦に亡くなったことを知ると、どこにいても人との現実的想像的なつながりから逃れらないのだろうかと、まことに暗鬱な気分になるのであった。はやく完全に人様のことは忘れるのが一番であるが、実はいつも忘れてはいるのである。でも不可解にもふいに浮かんだわけで、そうなると、もう完全にボケるしか社会の網の目から逃れるすべはないのかと、ますます不快の念は増すのであった。

  念頭にあたって、これが私のあいさつです。、、、といえば、ガースーだと笑われるなあ。