panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ドクターXを連続してみる


R. Broschi, Son Qual nave ch'agitat'

 函館帰省前からずっと何とかプライムでただで、大門未知子シリーズをみていた。シーズン2が終わった。テレビドラマ相棒同様、CM抜きで見ていると、結構見ていられる。ということで。

 ただそれだけなもんで申し訳ないが、アマゾンプライムで無料視聴できるというのが老後の楽しみになるかもしれない。

 手術が終わった直後に流れるゆっくりした旋律がなかなかいい。でも日本医師会から文句が来ないのか。このドラマ。医者を完全に馬鹿にしつくしているのだが。でも大学病院は開業医の集まりである日本医師会の範疇ではないか。

週末の函館は寒かった


Anthony Roth Costanzo - Handel: Rodelinda, HWV 34 - Vivi, tiranno, io t'ho scampato

 帰京したが、疲れている。ものを運んだり、運転したり、じっと室内にいたり、ホテルにも一泊だけ泊まったので朝飯を食べること自体も疲労の理由だった。 

 とにかく寒かった。帰京するとこの暖かさで、嫌な気分になった。何度かストーブをつけて暖をとる6月の北海道というものに悲しさを覚えるが、自殺の名所、函館山立待岬の断崖から飛び込むほどの感慨ではない。ま、韻を踏むためだけに書いた部分なので無視して結構。

 ということでまた。どうしようかと迷っていたこの人のCDをさっき買った。コンスタンツォ。フランスのコーラスといったかの映画に出ていた少年が長じてこのヘンデルを歌っている。フィリップ・グラスヘンデルを交互に歌っているCDのようだが、そういう人なんであるね。

きれいな本なのにきれいには映らない

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 ライオンと綴って、ライアンと読むこの社会学者はポキのなかでは評価は低い。この本も、翻訳一般の読みにくさもあって、一貫していないようで、読むのが苦しい。しかしただひとつ評価したいのは、最初彼は監視国家からはじめ、政治的な面で監視をとらえていたものが、だんだんと監視社会論へ移り、とうとう監視文化にいたったその経緯である。

 文化であれば普通の人びともまた、監視対象であるばかりでなく、監視を行う側でもあるという含意が、ここには、ある。生産や政治的主義主張が人のアイデンティティの根拠であることをやめ、消費主義的な自己呈示が優勢になった「デジタルな近代」にいては、監視する、されるの関係は非常に複雑になっている。いいかえると、監視という言葉はある意味もう使い物にならないのかもしれない。

 という理解ある態度を言葉の上ではしているポキだが、はっきりいって怒っている。このデジタル近代に。すべてが融解するというバウマン的ビジョンがこれほど正確だったとは夢にも思わなかった。監視される我々が監視の材料を率先して提供する時代に、自己情報保護なんかも一緒に亢進する、というこのわけのわからなさも、そうした溶ける時代の現象なのだということだろう。

日曜の朝のあまいささやき


中村晃子・細川俊之 あまい囁き 1973 / Paroles,paroles


あまい囁き【訳詞付】- ダリダ & アラン・ドロン

 

 曇天のというか梅雨の日曜の日本の朝である。北海道には梅雨はないから、本州の朝。

 今なら1万円で買えるナチチャコパック1973年版(1972年版は知らなかったのでもう買えない。中古でも出てません)の3枚目を聞く。大体ポキと同学年の連中が封書で送ってくる「お題拝借」(その週のテーマにしたがって文章をつづる)が感動的に面白い。

 内容より、文章力に圧倒される。高3や浪人生が投書している。その文章力がいまからすれば考えられないほどのレベルなのだ。

 この半世紀にこれほどSNSが普及したのに、人の文章力は完全に衰えたということなのか。まったく、スゲーだのヤバイだの、というか、この2語ですべてを云いつくす聖書の怪獣みたいな若人が跋扈するようになるとは、誰も想像できなかったなあ。

 ナチこと野沢那智アラン・ドロンの吹き替えでこの曲を歌っている(しゃべっている)のだけが、この6枚組の昔の放送の録音では、曲として流れるので調べてみると、もうYouTubeでは聴けないようである。細川俊之のがあったが、競演していたからなあ。野沢那智の相手は金井克子のように思えるが、そういう時代だったのである。

 アランドロンの訳詞でみていくと、パロールは要するに言葉だけの男を一貫して難する内容だったことがわかる。あまいささやきというのは間違っていないが、ニュアンスは、もういい加減うんざりということだったことに、何十年もたって、気づいた。

 文章力はあるのだが、探求心が欠けていたということか。ポキの場合は。大ヒットしたのに。それにしても、ささやきが漢字なのか。囁き。どういう言語能力をしていたのか、当時の日本人は。流行歌を買う人々が、これは読める、と判断したんだなあ、売る側は。驚愕というしかない。合掌。

 合掌といえば、これはダリダが自殺するだいぶ前の曲である。その一生を描いた映画は去年だったと思うが、みた。時は過ぎた。自分がそんな歴史の時のなかにいることに、高校時代のアホなポキは気づきもしなかった。・・・やっぱヤバクね?

 

美女と野獣?・・・蒼井優?


Nat King Cole - Fascination - 61 Unforgettable Actresses in The 50’s

 蒼井優が結婚して、朝からうるさい一日だった。しかしなぜ?

 21世紀初頭の日本のテレビを飾る女優の一群、すなわち宮崎葵→蒼井優黒木華高畑充希二階堂ふみ杉咲花

 このなかに美人はいない。昭和の女優とか入れるとYouTubeでは美人が出てくる。50年代アメリカ映画の女優は上に掲げた。そして21世紀初頭の日本のテレビには、、、。

 ポランニーの文化的真空という言葉を思い出すのであった。

 それにしても思いのほか、ティーポのバラードは圧倒的だった。これ以上は全盛期のホロヴィッツでないと弾けないのではないか。


Dean Martin & Caterina Valente - One Note Samba

イタリア人ピアニスト、マリア・ティーポのパルティータ


Chopin - Maria Tipo (1979, live, Lugano) 4 Ballades

 これはショパンのバラード全曲である。ポキが聴いているのは、MP3で買ったバッハのパルティータ全曲。CD では1万円。中古で。しかも。

 昔廉価版のような値段で5枚組とかがあったのに、いまそれは23000円。しかも中古。

 ということで、買えるときに買わないと、ずっと待ってしかもネットで買うはめになるのである。くわばらくわばら、りえ。

 このショパンも力量を感じさせる。滞るところのない、退屈もしない演奏である。

何も知らない、、、、のか、ほんとに?

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 最近は書く気力を失っているのだが、それは忙しいからである。一つの理由はだが。もう一つはこのブログのデザインが変わって、書いているときと書いたあとでアップするときがまったく同じ画面だからだ。だからどうなってアップされるか、その際は印象がどう変わるか(内容というより全体の感じのこと)かという不安と期待感が消えてしまったのである。この点は前にも触れた。こんなささいなことで気力を失うとは。

 そう思っている間に、もう梅雨の季節だ。昨年は手帳をみると6日が梅雨入りだった。明後日だ。今日も4時間半しゃべって体中べとべとした感じになってしまう。暑いわけではないが、こののったりした日本本州的な感覚には慣れない。

 結局5月の快適な日も、結構雨が降ったりして、相変わらず少なかった。日本の四季というのはいい日のないものなのである。そう我が家では言い募っている。

 あ、テーマは最近の若人のものの知らなさについてであった。主題に到達する前にまたグロッキーなのであった。

 しかしこの写真の大きさというのも気に入らない。なんでこんなに大きくなってしまうのか。

やはり厳しい銀座の夜

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 週末珍しく大学時代の友人と銀座ではしごをして、土日はグロッキーだった。グロッキーというのはダウンしたという昔よく使われた表現だが、もうコンパ同様、使っている人は少ないかもしれない。コンパもいまではただの、飲み会か飲みである。

 でもただの飲みなら、ポキのような教養ある人間がわざわざそのために時間をつくって出ていく必要もないような気がする。こういう殺風景な言葉が21世紀のなんたるかを表現しているのかもしれない。

 いずれにしても、銀座と東京のいやなところは、予約である。結局店は予約いっぱいだったので、5時から金曜の夜、というかまだ明るい5月の末に、カウンターに座るはめになった。5時半には長いカウンターがいっぱいになっていたので、そういうことなのである。前に行って20分待って入れなかったことを思うと、大人になったが、この世でもっとも嫌いな物の一つは予約である。他人が予約してくれることには、しかし、もう少し寛容なところが、また情けない。

 途中立ち飲み屋を含めて、サラリーマン的な飲酒ではあったが(銀座の8丁目付近にも立ち飲みの安い店があるのである)、10時すぎに帰路についたので5時間も飲んでいたわけである。とはいっても、肝機能に難のある身である。そうは飲んでいないが、一度バーに立ち寄ったので、久しぶりにカクテルも飲んだ。飲みたいというより、うすーく自宅で肝機能を考慮しつつ最近つくっているカクテルとどう違うかをチェックできた。ま、カクテルは格別ではない。手筈通りつくれば、誰でも同じようになる。氷を営業用のを買って作ればいいのだ。

 ということで、ようやく回復したと思ったらもう日曜日深夜、というより月曜日深夜になっているではないか。うーん。やはりそとで何軒もはしごして飲むのは控えよう。

 という教訓を久しぶりに思い出すのだが、ま、楽しくないわけではないので、困るのである。常識的な範囲での全種類のアルコールを試してみたが、いつも通りビールがそれほどうまく感じられない晩年様式に突入しており、それがひどく悲しい。