panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

オンキョー、外資のもとに

f:id:panacho:20190527121303j:plain

 年に幾度の、いや一度の健康診断で朝早くきた。最近は個人情報保護の観点からスピーディでかつプライバシーが守られているような検診が行われ、体重は増えるが身長は減るという一人デフレ状況は毎度のことながら、ともあれ終わった終わった。

 といってネットみると、オンキョーまで身売りすることになった。うーん。パイオニアもケンウッドもトリオも、もうないのである。名前は残っている。今年春に函館の自宅用に買ったのはサンスイのだったが、当然サンスイは倒産しており、名前だけが使われているのである。

 それにしても、ひどい。なぜ自宅でスピーカーで聴かないのか。大学生が昔はせっせと貯金して大きな装置一式を買ったものだったのに。

 東京の住宅事情はわかるが、こうもあっけなく、かつての大御所的メーカーが姿を消すとは、思いもしなかった。・・・残念である。

 というのもつい最近、オンキョーの中型アンプを買ったばかりなもんで。コスパの関係でいうと、いつも日本製が浮上するもんで、、、。返す返すも無念である。

バッハだけが作曲家じゃない

www.amazon.co.jp

f:id:panacho:20190520172832j:plain

  この人は、このCDの作曲家だが、何と読むのか。オランダ人。800円くらいで買える。アマゾンで。聴いてみると、なぜバッハが死後埋もれたのかが想像できるくらい、見事な作品である。バッハに頼らなくても、当時はいい作曲家は目白押しだったのである。その一人ということになろう。

 でもこれをピアノで誰か弾いてくれないか。それでよし悪しがもっとわかる。それにしても名前は?なんて読むの?

 

美術史家田中英道の今日


田中英道「イスラエルの学会と『日本国紀』」 日本国史学会 第62回連続講演会 代表挨拶 平成31年1月12日 拓殖大学

 昔のことを思い、頭脳のなかで再整理し、評価の軸を考え直し、そして再評価し、思い出としてひたるものはひたり、そうでないものについてはひたらないということを朝繰り返しているのだが、田中英道はその昔はポキの学生のころ同じ大学の美術史の教員だった。

 大学進学上、美術史は選考学科の一つだったポキなので(ま、西洋史も哲学もだが。とはいえ就職を考えると法経が男子の選考として残るのだが。そして残ったのだが)、当時から少し注目していた。ルネサンス美術は教養人の必須領域なので大学時代、若桑みどりとかも含めて読んでいた。本は高かったので、繰り返し本屋の一隅でその種の本が並んでいるのを見るというのが日々の日課だったが、たまに買うときには清水寺から飛び降りるがごとき英雄主義的気分になったものである。

 そのルネサンス芸術の専門家がその後、日本美術についても論じ、ちょっと変だとか思っているうちに、日本国史学会というものを創設して会長に収まって、こういう議論をしている。たくさんYouTubeにあがっている。

 一冊念のため買ってよんでみると、日本のリベラルは左翼リベラルであって、それはマルクス主義の偽装というか本質的にマルクス主義であるとしており、リベラルは日本には不必要であると論じている。マルクス主義自体はユダヤ人のある種のものの考え方を体現しており、ユダヤ人こそが近代の主役みたいなものだったという。コロンブス自身がユダヤ人であり、上でもハーバードの教授の6割はユダヤ人だというのだが、戦後はこの国をもたない民独特の思考が跋扈している。日本も例外ではない。とくにフランクフルト学派こそが知的にはユダヤ的思考の中心的な学説、運動母体であったという形で、いつも批判的に言及される。

 おそらく、多くの人が、とんでも学会、とんでも学説、とんでも右翼思想家と田中先生を批判するだろうが、いまだに西洋コンプレックスが学問という形をとってその発散を形成している大学なんかのことを思うと、果たして彼の主張を一蹴してよいものだろうかと、せっせとYouTubeを流しているところである。

 こういうことをいうのはかなり勇気のいることだが、西部や江藤淳、三島も批判の対象で、その配慮のないところがまた、興味深い。

華麗なる週末

f:id:panacho:20190517123636j:plain

 昨日で今週の公式の仕事は終わった。だから今日はぐったりしている。103歳ともなると、足もくたびれるし、腱鞘炎も再発しそうだ。マイクを右手でもってしゃべるのでそうなるのだとようやく昨日悟り、持ち替えてみるが、気づくと右手にもっている。

 というわけだが、昨日今日と昔のラジオ放送のCD(6枚組)やタモリの最初のレコード(のCD化)が届いて、ポキの心は浮足立っている。伝説のナチチャコパックは1973年版。これって高校の時だなあ。愛川欽也がキンキンとしてブレークしたのもこの文化放送の深夜ラジオでだった。タモリの密室芸人ぶりもニッポン放送の深夜で爆発的に広まった。・・・といっても密室的にひっそりとだったかもしれない。

 というわけで今日は職場にいくのをやめて、これを聞くことにする。

 起床時には昔のことを思い出す訓練をしているポキには、70年代全般から少しも変わらない自分を発見して、半分は悲しい思いをし、半分以上は、したがって重なっている部分はあるわけだが、これが原点だったんだなあとつくづく考える次第なのだ。

 岸田森とか野沢那智とか、一貫してこの手の顔の男の声というのが(ジェットストリーム城達也の顔は覚えていないが)、いい声なんだなあと------男の声のいいのはなかなかないもんだから-----改めて思ってもいる。

 ちなみに華麗なる週末は映画の題名である。ケンタッキーくらいの田舎を舞台にしたスティーブ・マックイーンの名作(だと思う)。これも同じ頃、高校時代にロマン座(函館)でみたというはっきりした記憶がある。

f:id:panacho:20190517132044j:plain

 

秘密のケンミンshowで人生の航海と後悔を感じることについて


【西部ゼミナール】 5/18 「錯乱腐乱に向かうエコノミックス」

 秘密のケンミンショーをみていると、みのもんたがゾンビではないかと思うが(死んでいるようにみえるが、たまに起きて発言したりものを食べたりしている)、そういうことではない。

 ケンミンショーをみるということは、地方の豊かさとユーモアと歴史を意図せずして維持している人々の屈託ない顔をみるということである。これは、いいかえると、東京が体現する上昇志向と啓蒙主義と批判精神というもの、要は近代的動員という現象が、またその帰結としての今日の疲弊が、ほんとに無駄な努力とその産物であったのではないかということを思うということである。

 そういうものをずっと警戒して生きてきたが、実相は動員に正面から抵抗したわけでもなく、後悔は深い。しかし正面から抵抗したとしても、結果は同じことか、もっと悲惨なものになったであろう。それでも正面から抵抗すべきであったかもしれないと二重に後悔するのであった。

 以上を要するに、空洞化しているのは地方ではなく、東京だということである。東京こそ空洞のカテドラルであるなあ。

京マチ子、死す

 あれ、まだ訃報のニュースがヤフーには出ていない。あとでまた。

f:id:panacho:20190514172619j:plain

 95才だった。朝、ラジオでドリス・デイが亡くなったことを知ったが、90才だった。うーん。母(ただし実母。継母はいない)とほとんど同じ年だったのか。ドリス・デイ。カリフォルニアの自宅で亡くなったらしい。日本の大女優京マチ子は病院だった。

JBLのスピーカーを選択する


Giovanni Battista Ferrandini - Catone in Utica - Aria di Catone - Con si bel nome in fronte

  昨日、届いたのだが、最近はオペラアリアを中心に偏重的に聴いているので、もしかしてジャズ用だと思われているこのスピーカーがいいのかもしれないと思って、注文したわけである。

 といっても前古典派オペラの歌は高音続きである。音量を絞っても結構透明な感じで聴こえてくるので、やや安堵。でも、こういうものに高い金を出すのは毎回、いやーな気分になる。・・・何という貧乏根性だろうか。ふふふ。根性だけじゃないかもしれないが。ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ、ジャン・フランセ。

 フェッランディーニのこのオペラをもっていることをさっき発見して、ほとんどイタリアと化した自室のコレクションに改めて、驚く。集めたもんだなあ。

午後は仕事だ


ニュルンベルクのマイスタージンガーより第一幕への前奏曲

 わかっているのかわかっていないのかわからないが、それがわかっても仕方ないので、かんぱることにしよう。

 でもこっちがやっぱりやる気がでるのでは?ユダヤ系イタリア人が反ユダヤ主義者ワグナーを指揮するより。こちらでやる気がでるというのがいまではおかしいのか。のか。の、か。の。か。・・・天才カルダーラには、もう少しあとで生まれてほしかった。


Antonio Caldara Cello Sonatas, Gaetano Nasillo

小学生の頃から図書館で児童本を借りて読み、テレビをみるだけで教養の基礎はつちかわれる

f:id:panacho:20190508225216j:plain

 培われると書くと読めないかと思い、つちかわれるとした。それくらい気を遣っているのである。あ、つかっていると読むが。

 うーん、もう対話も話も成立しない。今日も年寄り連中とそんな話をしてきた。深刻な問題なのである。

 テレビ番組も相も変わらず日本のは、人情ものと一括してよいほど低能だが、たまに面白いものもないわけではない。手放しでそうは言えないのが玉に瑕だが。きずと読む。たまの方は読めるものと期待する。期待するが確信はない。


タモリ(1978)

 笑うことは共同体を維持するヒトの原点の一つなのだが、言葉も知識もなければ、どうやって笑うのか。そもそも人を笑わかすという意欲を言葉も知識もない人間にもてるのだろうか。


追悼デストロイヤー デビュー直後のタモリ。デタラメ中国語講座 昭和51年(1976) チェルシア・チャン陳秋霞

 

分水嶺からアル・カポネまで

f:id:panacho:20180121165757j:plain

 西部邁である。彼の大衆社会批判はもう完全に有効性を欠く。彼が何を云っているか理解できないおそれがあるからだ。大衆社会の人類は。

 前回は分水嶺という言葉がわからなかった。今日はアル・カポネを知らなかった。言葉と知識の両面でこんな常識的なことに無関係に生きているホモサピエンスがあることに、驚くというより、がっくりきた。

 サピエンスとは知恵の意味である。