panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

いぜん増え続けるが、比較的低い数値なのではないか

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  今日も東京は一日当たりの最高人数をこえ(180人ごえ)、やむことを知らないが、ロックダウン中の欧米より圧倒的に少ない。だから不徹底だとか遅れているとかという欧米や国内の日本批判など、あまり気にする必要はいまのところないのだが、どうなるのかは今後の情勢次第だし、はっきりそう言い切ることもできないのが悔しい。

  さすがに今日はドライブして気分転換を図った。東京の狭いマンションに住んでる人々が、よく日がな一日、自宅待機できるなあとか思う。インドアの王、不活発の皇帝、一人まみれの族長であるポキにしても、これはたまらんということで、ようやくまじめにコロナについて考えることにした。遅ればせではあるが。

  なぜ外国では日本を批判するのか。この数値に嫉妬しているのか。それとも、白人的アジア蔑視なのか。これから急激に拡大すれば、そのときではないか、日本のやり方が批判されるのは。それ以前に、こうも圧倒的に批判されると、問題は、市中感染数よりやはり死亡者数だといいたくなる。

  市中感染が院内感染につながり、医療崩壊になるというのは理屈としては正しいような気もするが、道徳番組としての夕方のワイドショーをみているかぎり、経済の疲弊というか中小企業の倒産などのほうが長期的には重要のように思える。飲食などは都市文化の華なわけで、そういったものが軒並み倒れていき、次に平時がやってきたときに回復するのにかなりの時間がかかるというのが残念。

  一方、いわゆる通常の中小企業はもともと労働生産性が低いのだから、ここで一回リセットしてみるというのも日本の経済構造を変える契機になるのではないか。と完全定期給料制の身分で云うべきではないかもしれないが、こっちは仕方ない気もする。

  いずれにしても非常時の体制方針がなかったことに、いつものこととはいえ、日本の国家的欠陥を痛烈に味わうことになった。警職法改正という1950年代の社会問題でも、国民の大反対が生じて挫折し(ここから60年安保への国民運動の流れが出来上がった)、国家的安全保障へのアレルギーが非常に強い戦後日本の政治文化が作用しているわけだが、こうしたアレルギーは朝から晩までジャーナリズムの基調になっていることを改めてかみしめている。あなた方(?)のそういう姿勢が有事に備えるという国家にとってもっとも大事な役割を無視させてきたということをとにかく強調したい。