panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

日本民衆の抒情詩歌を介しての戦争翼賛-----これほど批判されることなのか。


  ああ海軍流の戦記映画を結構みて、中野敏男先生のこの本を思いだした。改めて読んでみると、最初の評価とは異なる大きな欠陥に気づく。
  もともと抒情や郷愁なるものは大衆にもエリートにも集団レベルでは危険なものである。古関裕而先生が大量の感動的な軍歌と心踊る東京オリンピックマーチの作曲家であるという事情は、よき音楽やよき詩歌などがもつ動員の危険を象徴するものである。個人にとっては慰めであるものが、もっと大きなレベルでは怪物となる。バッハ復活だって、19世紀初頭のドイツ統一運動の明白なシンボルだった。ただそれを越えてたまたまバッハは普遍的だったわけだ。
  この本は、国民詩人北原白秋の抒情的な歌や童謡、そしてさまざまな民謡などが、詩歌翼賛として機能し、植民地主義の片棒を担いだという点をあざやかに指摘している。しかしこれがたんに日本民衆の戦争責任を明らかにするという研究らしいのである。植民地主義の民衆的基盤の析出と批判というのがどうもこの人の動機らしい。
  植民地主義というなら欧米のアジア支配、世界支配というもっと大きな文脈はどうなるのか。彼らの責任はどうなるのか。不思議に思う。なぜ日本人の責任だけをこうも大写しにするのか。慰安婦問題についてもどうやらこの総動員体制論の大家は日本糾弾派のようなのである。
  民衆の植民地主義をいうなら、欧米の植民地主義というか現実の植民地であったアジアへの視点がなぜ彼には浮かばないのであろうか。日本の民衆が植民地主義をもったとしたら、それは総力戦への大変適合的な動員の一つの側面としてある意味評価すべきなのではないか。
  この動員を介して成立した日本国家の長期戦なくして戦後の世界的な脱植民地化はなかったろう。結果論だとはいえ、簡単に破れるような日本であったなら、世界は変わらず、昔通りのアジア支配が欧米によってつづいていたであろう。それでよいのか。日本が脱植民地化をめざしたとは大声ではいえないが、まったくめざさなかったということは決していえなかろう。
  日本は小型の植民地主義であったことはあったろうが、どうしてもっと大きな植民地主義というか現実を無視して、小者だけを叩くのか。この左翼的偏向には改めて辟易(へきえき)するものを覚える。だめじゃないか、中野。・・・もしかして名前に難があるのか?