panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

カメラを止めるな


Julie Boulianne et Luc Beauséjour - HANDEL, Alcina: Stà nell'Ircana pietrosa tana


Julie Boulianne - ALMA OPPRESSA (A. Vivaldi - La fida ninfa)

 昨日昼間、カメラを止めるなが地上波でやることになったという話を聞いた後、夜、それがやっているのを発見する。録画したのは途中からだった。30分くらいは経過していた。でもまだ見ていないが、どういうどんでん返しがあるのかと思うと嬉しい。

 土曜日曜はポキのような仕事の人間にも嬉しい日である。世の中の幸福とヒト個々の幸福はつながっているからである。ポキはカメ止めのようなゾンビではないし、国民国家日本のやや非国民的な国民なので、世の中が幸せである土日(そうとはいえないのかもしれないが)になると必然的に嬉しくなるわけである。

 国民国家はnation-stateと書く無様なヨーロッパ語(ヨーロッパ一般が国民国家はこんな形になる)だが、national stateとはいわない。国民国家の起源については近代起源説ともっと古くからエスニーという形で存在した説があり、通説は前者である。後者は通説の代表者の弟子が唱え、ケンブリッジ大学ロンドン大学で戦うことになったのだが、ケンブリッジがなぜか強い。

 しかしそんな近代起源説なんてわけはないのであって、民族的人種的部族的文化的同質性のないところでなぜ国家のような強力な組織が出来上がるのだろうか。近代以前の国家の性格はただの上からの強制によって成立したにすぎないのか。

 ナショナル国家という概念を用いてある学者が後者の説を強力に推し進めているのを知って、今週は驚愕した。つまらない本だろうと思って、何年か読んでいなかったのが悪かった。そもそも国家論の本ではないし。

 彼のヨーロッパでの最初のナショナル国家はマケドニア王国だということである。つまりアレクサンダー大王の王国である。アレックによってナショナル国家になったわけではなく、その前から、ナショナルを民族と訳すと、民族的な共同体をもとにして成立していたというのである。大胆な説のようにも思うが、少なくとも近代になって国民国家が特別の形で成立した(つまりネイションなるものがはじめて国家の原理として登場したという点で)のではないということを知って、少数説であったポキとしてはかなり嬉しい。孤独な少数者に援軍来たるという感じ。

 YouTubeヘンデルとヴィヴァ君。やはりヴィヴァ君のほうが才能を感じさせると思うのだが。今日このCDというか二枚、買った。でももう一度上のを聴き直すと、ヘンデルも満更ではない。というかいいヘンデルをフィーチャーしているからね。