panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

トンレサップ湖は精神分析の寝椅子である。


  トンレサップ湖まで行く途中というか、既にその一部になるような近い場所にあった小屋というか住居の写真。そして、トンレサップ湖の関係で前にお示しした、湖上にたつ狭い家に生活する人々の写真。
  今回、海の生活者に近い人々の場所を訪ねて、一つある遠い記憶を思いだした。というか、それは一種の我輩の成分分析ともなるものであって、このような海であれ川であれ湖であれ、水辺の暮らしのあり方を自分が既に知っており、それが自分の生活そのものではなかったものの、その我輩の身近にある生活のスタイルが不思議な懐かしさと、しかも明確な違和感、拒否感、さらにはそういうものとしての暗さや恐ろしさ、なかんずく総体的には反面教師ともなっているということに思いいたったということである。こういうアンビバレントな現実が、幼い我輩の精神のあり方を決定したようにすら思える。
  基本的に嫌だったこういう生活様式を、まったくそういう生活をしてこなかったこれまでと今の我輩が、それゆえに、余裕をもって振り返り、懐かしいとさえ思う。この愛憎の心的メカニズムが東南アジアをめぐる我輩の歩きとそして執着を説明するのではなかろうか。そういうことに改めて、はっきりした形を得て思いいたっのである。このはっきりした形がどういうものかというと、水辺ののんびりした、大半は無為な、そして日差しの強いなかで蔵みたいなところで網をつくろっている人々の単調な生活なのである。それを見た瞬間、何を東南アジアに幻視してきたかの輪郭をはっきりつかんだと我輩は思ったのである。
  トンレサップ湖は水上生活者の町としてはタイで行ったような海上生活者の町には遠く及ばない。しかし、まだいぜん、陸上でさえ一般的な高床式の、うらぶれているようでもあり、なのにすがすがしそうな家屋が連なるのを見て(つまりカンボジアが相当まだ遅れているからなわけだが)、自分が見聞きしてはいたが無関係であった生活、まわりに山のようにあってしかし自分は異邦人であったそういう伝統的で地域的な生活に、反発しながらも愛着していた、ということに初めて気がついた。愛憎とはそういうことである。そもそもまったく愛していたとは到底思えなかったのに、そういう内なる原風景が懐かしく思いだされるものであるということに、正直云って、衝撃を受ける。・・・あ、笑劇じゃないから。
  我輩は、クメール・ルージュに強制されなくても、自由よりも平等を重んじている。ま、自由よりは滋養だと思っているわけだし。・・・だから太ったのか?うーん。ともあれ左翼ではないが、平等は尊いと思うのである。自由は古代からあったとしても、平等はかろうじて形になるのは近代以降である(だからその限りでは一種の近代主義者ではあるのである)。
  平等のあり方をこわす一大原因は競争なのであるから、後進国に教育制度をもちこむ結果として、将来、兄弟の間でも格差のある人生設計をしなけれぱならないことになる、ということを善意の援助者たちはどう思っているのか。そう問いたい思いによくかられる。
  水辺の生活にはこういう人生そのもののトラックを変えるほどの競争はない。うまく漁をする人間とそうでない人間の間の格差など格差ではない。もっと人間の格を決める競争が教育を介して近代的なシステムによって持ち込まれるときに、競争は本格的な競争となる。教育はこの競争の最大の原動力、基軸通貨である。教育によって少しは読み書きできるようになることは結構なことである。しかし教育はそういう原始的な段階でとどまることはない。中韓にみるように、狂騒的な競争はまず教育の面で起こる。そういう方面での教育の論理の過熱を防止する術を、善意の人々、短期的な視野でヒューマンなことを考えているしかない『福島瑞穂症候群』の人々はどうするのであろうか。
  野辺であれ田辺であれ海辺であれ、あるいは下町であれ、要は、地域的伝統的な「水辺の生活」を捨て、教育をバネに我々は戦後の近代という時代を生きてきた。この点は東京も地方も変わらない。そこには、幼い我輩が知らないだけで、既に高度成長の影が押し寄せていたのではあるが、しかしあまり競争らしい競争のない時代の常として、日々無為なもの、反復的なものが岩盤のように基調にある生活があったように(少なくとも我輩には)思われていたということである。それがのんびりした、小ずるいながらも、人のいい生活の仕組みを生んでいた。
  長くなった。・・・結局、我輩がこだわり(したがって多くの人々を巻き込むつもりはないし理解してもらわなくてもいいのだが)、そして感情的な表現を使えばたんに嫌だなあと思うのは、競争と教育なのだろうか。教育はいつも正しく、競争は部分的には悪者と感じられているとしたら、むしろ教育の方こそ否定したいと思っているのではないか。いわゆる学校教育によって立派な人間を作ろうなど、噴飯ものだということなのではないか。それはしばらく後には逆方向にぶれてしまう。むしろ立派な人間をどこかにやってしまう結果になるように思われるのである。
  かつては日本のとくに地方は東南アジアと変わらなかった。高度成長、高度大衆教育、ご立派な自由競争によって、ここまで運ばれてきた我々(我輩)ではあるが、それを本当に求めてきたのかというと、どうだったのか。東南アジアがそうした問いの焦点をなすものなのだということは、今、ようやくでもないが、明確にわかったつもりなのである。