panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

2017年冬の第二次朝鮮(米朝)戦争

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 ハノイ米朝会談の失敗は果たして失敗なのか。時間稼ぎをする北朝鮮にはそれなりに成果があったかもしれない。

 しかしこういう云うことを守らない国(日本はそのために辛酸をなめてきたわけだが)には力で云うことをきかせるしかないのではないか。領土問題や拉致問題の解決が外交的平和的な形で劇的に進展するはずはない。核問題も同様である。

 思い出すのはドゥテルテである。一種の戦国時代あるいは応仁の乱時代である現代フィリピン。彼の麻薬密売人を殺すやり方はある社会の脱暴力化の過程では一種の必要悪のように思えるのだが。

 「たいていの場合、ある社会で暴力が原因の死亡率が結果として減少することは、平和的な施策がとられた結果起きた現象ではなく、むしろ暴力の勝利によってもたらされたものである。『市民の平和』をもたらしたのは、勝利を収めた統治者が有する暴力である。」(アザー・ガット『文明と戦争』下、434頁)

 だから2017年中か18年初頭にアメリカは北朝鮮をたたくべきだったのではないか。なんのために沖縄に米軍はあるのかね?そのときもポキの予想ははずれた。戦争はもう外交手段ではないということなんだね。

 しかしそういうことは自由主義が浸透した近代社会でしか生れない考え方だというのが、ガット(イスラエル大学)の見解。人は産まれてこの方数百万年間、ずっと暴力的紛争に従事してきたのであり、戦争が物事の解決策として賢明でないと考えるようになったのはごく最近のことなのである。19世紀にとくにそのような見方は強まったが、史上最大の戦争はこの20世紀前半に生じた。戦争には謎(なぜ人は戦争をするのか)はない。戦争の謎など存在しないというところから、議論を始めるべきなのだ。

 と私でなく、ガットは考えている。ガッツだぜ。

 「さらにいえば、とりわけ武力を通じて形成され、武力によって秩序が維持された国家社会は、おそらく戦争に伴って生れた最も重要な『副産物』であろう。、、、最終的には、、、戦争は国家や文明の発展から影響をうけるだけでなく、国家や文明を発展に導いたのである」(434-435頁)。

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 丸く収まったという感じではないか。