panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

社会とは何か


  社会とは、ただの人間の集合(共同体?)をさす言葉ではなく、近代以降にヨーロッパで生れた新しい現象である。それを遡及的に使用して古代社会とか専制社会とか使っている。しかし古代社会や専制社会の実態は近代の社会とは全然違うはずで、ただの人間の集合体という、本来の意味でない意味で使用されているはずである。でも何からのまとまりがなければならないことはいうまでもない。
  社会が生れたのはおそらく、これもまた疑似的遡及的に使われる概念だが「国家」より古くはない。ポキの一応の理論的立場では、国家が生れたあとで生じた比較的多くな諸部族のゆるやかな連合を社会といっているにすぎない。つまりこの段階では社会とは国家のことである。
  しかし言葉の使用はなくても、社会のような表象がその当時あったとしたら、その機能は神の代行だったと思われる。神自体は約1万年前に誕生した。神は要するに農耕の誕生とともに、人類が集団生活をするようになってから本格的に生れたものだと思われる。だから神は社会統合の機能を果たすものだった。秩序を維持するために仮想された規律の焦点として神が機能する。同様に社会は神と同じ機能を、もっと共同体の進んだ段階で果たすものである。神と社会の二重の規制によって、共同体の存続が助けられる。でも集団的統合の基本的メカニズムは、おそらく国家という政治上の、つまり武力による統合だったと思われる。
  ともあれすべての歴史に社会があったわけではなく、近代特有のものだとすれば、そもそもサルとしての人類500万年の歴史の中では500年というきわめて短期的な現象であるから、社会のなかで生きることに人類は慣れていない、という想定が成り立つ。社会と個の齟齬が近代や現代のいぜんとして大きなテーマなのは、統合されて比較的多数のなかで生きることにサルとしての我々がそもそも違和感を感じているからなのではないかと思われる。たとえ無意識であろうが。
  近代では当初、近代国家対社会という構図の対立が大きな課題だった。それが体制が安定してのちは、つまり議会制が定着したあとは、社会内の対立(階級対立、集団対立、地域対立、思想対立)が焦点となっていく。国家の支配をめぐる社会内の対立(民主主義と利益政治)を扱うのが現在の政治学である。国家は括弧に入れられ、社会の動向が研究の対象となる。
  そうこうしているうちに、国民国家の枠組が弱まり、国民として表象されてきた市民社会そのものが弱体化しつつある。いまや国家はグローバル化で影を薄くし、その結果、何が生じたかといえば、社会的なるものもまた薄まり、個人がそこからはじき出されるという現象である。社会と個人の解離が今後も進んでいくのではないかと思うが、個人はつねに存在するということでいえば、消えるのは社会である。近代の国民的アイデンティティの根拠にして結果であった社会が消えると、残るのは国家と個人というルソー・ジャコバン型の国家構造である。憲法学者樋口陽一のいう意味での。樋口先生を肯定的に引用したくはないのだがなあ。
  社会を支える民族的結合も一時的な近代的現象だとすれば、ますます社会が今後どうやって生き残るかが不明である。社会という言葉だけが残って、それに参加したりそこから利益をえる社会的個人というのはどんどん薄くなっていくのではないか。
  ということで、いったん誕生したものは消える可能性があるということだし、それが日本では維持されるとしても、他の世界ではますます現実化してくるのではないかと想像する。
  これは仕事でもいつも云っていることだが、社会学は消えても、政治学は残るという悲惨な学問状況を暗示して、何か滅入るのであるが。ポキの好きなのは社会学のほうだし。
  悪名高いどうしようもない参謀だった辻政信だって、戦中日本社会の従順さがあって、はじめてあの愚行が可能になった。近代という時代の産物なのだ。ミャンマーに行ったら日本人なら思い出そう。