panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

戦士の宮廷化


  仲良くすることを強制される社会というのはかなり文明化の進んだ社会である。文明化といえばエリアス。エリアスの『文明化の過程』はいまでも圧倒的な傑作というだけでなく、神島二郎を読んでいるとただちに思い出す研究である。
  仲良くすることを当然視しない社会は異成社会というのだが、異成社会としてのヨーロッパですら「文明化」が進んでいくと、支配の網の目にとらわれて、同じ「宮仕え」的なメンタリティをもつにいたる。サラリーマンの悲哀として語られる宮仕えという言葉は日本では端的には上司に仕える悲哀だが、ヨーロッパのまさに宮廷では四方八方への複雑な「配慮」である。まさに宮廷だから。
  戦士社会から宮廷社会になることが戦士の宮廷化だが、そこでは自己抑制が至上の価値である。宮廷では好き嫌いの感情を表に出すことは自己抑制の欠如である。敵とも表面上は仲良くすることが必要である。というか誰がホントの味方か敵かがわからないまま、高度に社交的な関係を長期に維持することが必要である。戦士は好き嫌いをはっきり表明して暴力を振るうが、宮廷ではそれを自己抑制する。その結果、フロイト的な超自我、自我、無意識という自己の心的構造が生れる。このいまや普遍的だと思われている心のあり方は宮廷化のなかで出てくるものだとエリアスは考えている。そこではじめて自己と他者、自己と環境(社会)という二元的なものの考え方が出てくる。つまり我々が普遍化して考える心のあり方も、文明化の産物なのだ。だから文明化の逆転現象がもし生じたら、その構造も変わり、新しい自己も生れてくるかもしれない。
  いずれにしても仲良くすることを強制される社会は決して馴成社会だけのものではない。その不自由さは、文明化の進展がもたらす不自由さなのである。・・・書いていてがっかりするわけだが。