panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

文芸評論的


  文明論のなかで国家について構想しているもので重要なものをならべて、何が引き出せるかを整理した。文明論には国家論が必然的にか偶然的にか多い。
  文明論を書く人は前歴が劇作家とか文芸評論家という人が多い。入江隆則山崎正和なんかが代表的だし、江藤淳はほぼ読まないがまさに典型だ。というか福田恆存も劇作の翻訳家でかつ英文学者だった。入江とは一緒にシェイクスピアの辞典を出している。不肖我輩はもっている。なかなかハンディでたまに眺める。目の保養になるし、頭の酸欠もよくなる。
  ということで文芸評論といれて画像検索しても、しかし、ろくなのがない。というより、ここ30年ほどよい文芸評論家が出ていないように思う。写真で出てくる人物はかつての広い意味での同僚だったり現にいまも広い意味の同僚だったするが、ほとんどその書き物は日本語じゃないと思う。ほかにも別の福田某とかの写真が何度も出てくるし、斉藤美奈子にいたってはもうこれしかいないのかという感じである。
  しかし思うのだが、社会科学は深読みをしない学問である。深読みはセンスのない証拠である。しかしそれをつづけていくと、軽くて薄っぺらくなることは事実で、どうしようもなく浅薄にすら思えることがある(せいぜい社会科学のなかでは思想史の連中には深読みが許されている)。対して、文芸評論は深読みの世界である。
  30年前以上は、我輩その他?は、こうして人生や人間や社会に対してもっと深層的理解がありうるということを学んだ。常識の外に、底にもっと深い真理や心理があるということを学んだ。というかそうした深いものがなかった可能性もあるのだが、深く読む人がおり、それがちょっち感動的だということを体験した。
  考えてみれば、我輩がいまの仕事を選んだとき、これほど単純な誰でもできる仕事はないと思ったものだった。完全に馬鹿にしていたのかもしれない。それもこれも、文芸評論的な世界を知っていたからではないかといまからなら思う。文学それ自体というよりも、それについて論じるモーリス・ブランショ実存主義精神分析評論(サルトル)や元東大総長のフランス文学者の本なんかで、カフカボードレールフローベールについて読むとき、ほとんど忘我の喜びを味わっていた人間には、社会科学は平板で凡人の仕事だと思ったとしても故ないわけではない。
  そういうことで我輩をつくったのは文明論を読みながら思うのだが、文芸評論なのではなかろうか。写真は一度も現物を読んだことのない藤沢周平先生。時代劇小説家。いい写真がないんで。文芸評論でチェックすると。さっきも云ったが。