panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

心地よい暑さがもたらす脳内限定悲劇


  贅沢な悩みだが、室内が暑い。気持ちよいくらい暑いのだが、そのことが逆に北海道を思い出させて、気持ちが暗くなる。気持ちよいことが気持ち悪いことになるというこのパラドクスは結構、ポキの場合、多いかもしれない。
  ポキの仕事は基本的に楽な仕事である。でもこの楽な仕事というのがまずもって不快である。親は普通の勤め人だったし田舎も高度成長時代だったから、普通にハードに働いていた(こういうときに普通にという言葉を使うわけか)。そのことをときに思うと、猛然と腹がたつ。親の時代の、ポキのような仕事の人間はもっと楽な仕事をしていたように思う。そう思うとその違いにくやしいほど腹が立つ。
  これってやりだしたらキリのない無限後退になってしまう、そんな苦しい回顧的比較なのだが、だから途中でやめたいのだが、比較の原動力は怒りだから、怒りを中途で止めることがなかなか難しいように、回顧的比較はどんどん自動的に進んでしまう。  
  楽な仕事なのだろうか。ポキの仕事は?仕事にみあった対価をもらってるんだろうか。そういう点まで考えが進むと、今度は、たいして大きくない別の怒りにとってかわられて、これは社会科学的に処理できる。だからここで思考と怒りはやむ。
  しかしもう取り返しがつかない過去のことを思い出しては、たまに怒りつつがっくりきているわけである。このがっくり感と怒りの共存は怒りの性質を悲しいものにする。そして悲しい怒りほど、悲しいものはない。もっと悲しいものはあるが、でも悲しさのレベルでいえば、結構高いものだと思える。
  自分は十分お気であるというそのことが、はね返って、怒りと苦しさの源泉となるこのメカニズムを打ち捨てないと、幸せはこない。そのことはわかっているのだが、郷里に帰るたびに、北海道のいてつく寒さにある種の絶望感をいだく。だから凍える時期には帰省したくないなあと思いつつ、年末は長期にわたって帰ることになっている。そのために電気毛布だの敷毛布だのヒーターだの長袖の下着だの厚いパジャマだのの用意に余念のないポキ、101歳なのであった(電気毛布は二つ自宅で発見したが、いつのものなのかはっきりせず、寝ているときに火達磨になってもっと悲しい目にあうこともあるだうから、新しい電気毛布を三つ買わないといけいないと思うのである)。
  熊本マリサントリーホール(2016年)のユーチューブを聴きながら。熊本マリはいいピアニストだと思う。ということは前にも述べた。音が乾いて鮮烈であるのに、抒情的でもある。ちょうど回顧的比較にぴったりだと思う。