panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

1759年のヘンデル逝去

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  昨日は西荻から帰ったので深夜になってしまった。スライドシーョでは下川裕治節が小規模に炸裂していたが、もう彼には東南アジアを知り尽くして満腹飽和状態だということがよくわかった。上下左右にゆれつづける汽車の旅は大体どこも推薦しないとおっしゃっていたが、これもよくわかる。我輩もカンチャナブリ行きで経験した。
  午後そのため疲れて少し寝て起きた。ティーポとウーギのモツ君バイオリンソナタを聴きながら寝入ってしまったわけだが、久しぶりにヴィヴァルディから離れてみたが、いったんヴィヴァ的世界に入っていると、簡単には抜け出せない。ショパンを聴いているときシューマンは聴けないし、バッハに没入しているときにヴェルディは聴けない。それと同じである。
  さてそこで今日の表題だが、記憶ではヘンデルはこの年に亡くなった。バッハより9年だけ長生きだったのである。さっそくイギリスではヘンデル顕彰団体ができて、世界でもっともはやく古楽への関心が制度化され、その結果、その後の音楽界でイギリスは一線にたつ作曲家を生み出せなくなったといわれている。
  しかしこの時期、一般にはバッハ死亡の1750年を境に音楽は古典派へ変貌するとされるが、もし59年という年にもう少し着目すれば、バロックから古典派への変化の背後には、1760年の産業革命期の到来というもう一つの決定的な現象があったことがわかる。
  1760年はジョージ3世の治世の開始であり、56年(モツ君誕生)にはじまった7年戦争が63年のパリ条約で決着したわけであり、60年代に産業革命は生まれた。
  とすれば、バッハが忘れられたのではなく、バッハ以前のすべての音楽世界が1760年代を画期として別の世界に変わったということではないのだろうか。つまりここでフーコーエピステーメー(認識の地平)の断絶が生じた。
  というのもバッハが忘れられたとともにヴィヴァ君も忘れられたことが忘れられているからである。ヴィヴァ君はバッハ復活とともに、バッハが編曲したイタリアの作曲家として復活するからであり、その間、彼も忘れられていたのである。
  だからいわゆる近代世界の決定的登場によってその前の世界が人々の評価する世界としては消えたのではないかと思うのであるが。
  ヴィヴァ君を聴いているとまったく古典派以降(のみならずバッハなども)を聴こうという気にならない。まったく別の世界だから。ということであって、その背後には音楽史というより歴史そのものの大変動があったということを思う、もう夕刻の時刻。自国にて。