panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

気晴らしはどこに?


  明日から週末まで連続して出勤するので今日はどうするかを考え中の午前。行くか行くまいか。届いたエリーナ・ガランチャを聴きながら考える。このCDには、ドリーブのラクメからと、サンサーンスサムソンとデリラからのが入っている。何という至福であろうか。・・・私腹も肥えるというものだし。ふふふ。でも出勤には私服が必要である。裸体では車まですら到達できない。
  気晴らしが必要だと思って金曜日は遠くまで出て、講義形式というか講演というかショーとはいえスライドショーみたいなのに出ても、あまり気晴らしにならない。45分くらいでやめてほしいのに、無愛想にもかかわらず、演者は話しだすととまらず、2時間近くかかった。椅子も平らな木だし、思わず大学の講義を思い出す。
  とはいえ我輩は根性もなく、大学時代に講義に出たことはめったにない。椅子が固いし、ユーモアのない話を90分聞くのは苦痛だった。いまでも大学は90分授業だ。しゃべるほうは下川先生のようにのってくるから時間に苦痛はないが、聞かされる方は拷問ではないかと思うが、誰もこの90分スタイルの改革に乗り出す気配はない。
  安保法制には反対でもサヨクはこういうことには無頓着だ。きっと家に帰ってもそういう人々は茶碗一つ洗わないのだろう。そういうところがいやだ。
  というはなしではなくて、考えたが、何十年にもわたっていろいろ工夫した結果、我輩は日々の生活が気晴らしからなるようにしていった。その結果、日常から離れて気晴らししようとすると、もう気晴らしするものがないということになっていたのである。気晴らし生活が生む気晴らしの喪失。なんという背理であろうか。片桐はいり
  いまもガランチャ聴いて書いているわけであるし、最大の気晴らしが日常的な職業生活に食い込んでいる。コーヒーすら飲んでいる。つまり我輩を構成する三大要素のうち二つ、珈琲とクラシックがすでに気晴らし的存在なわけで、だから本を読むという作業をやめれば、それが日常からの離脱としての気晴らしなのだが、それだけでは積極的気晴らしにはならず、気晴らしがいまのところ喪失された状態にあるということなのである。
  そもそも900円もとって硬いただの板に座らせるところに気晴らしがあるはずがない。ということではないような気もするが、ま、そういう次第で我輩にはいま気晴らしがないのである。
  ガランチャのあとは3枚組のエンニオ・モリコーネを聴こうと思う。9時半。