panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

弘川寺


  今日はよく部屋の清掃につとめた。曇り空の三連休とはいえ我輩には関係ない。関係はないが、外を通る車の数が普段の日曜日より多い。だから人々がどこかへ出かけようとしていることはわかる。我輩は想像の世界で羽ばたくというか、どたどたしているわけである。
  写真はナッ信仰の神様?のようなのだが、ダルマに女子のとぼけた顔を書いたもの。写真はどこからかとってきた。もとは失念した。このダルマ、我輩の家にも一個ある。二個買い、一個くれという同行者の要請を拒否してもってかえってきた。もう一個は母(ただし実母。養母はいない)のところにある。母はもらいものは大切にするし、記憶はつねにそうしたもらいものと不可分である。何十年前のものであろうと誰からどういう事情でもらったかをつぶさに覚えている。当然、我輩の家のダルマがなくなっても、あっちには残っている。そこで我輩は自分がミャンマーのあのサル山にのぼったことを思い出すことができるのである。
  とはいえ弘川寺は西行終焉の地で墓があるようである。今日の再放送の鑑定団番組で知った。というか西行はいまの大阪で亡くなったのか。うーん。如月(きちらぎ)の望月(もちづき)の頃に。ということで一つ利口になった。というか、西行は日本人でもっとも好かれている歌人である。家人ではない。もっとも好かれている家人については家長としては発言を控えたい。歌人である。
  いまさらながら、頼朝の源氏だって河内源氏から出ているし、清盛の平氏だって伊勢から出た一族である。やはり東は辺境である。東夷(あずまえびす)なわけである。
  西行が大阪河南町で死んだとしても当然ではあるだろう。騒然ではない。それはトルコやニースの話である。午後6時。