panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

空っぽの闇の闇

北海道の奥地と道南地方では云っているあたりの駅舎。
  昨夜、からっぽのやみ、もしくはからっぽやみという言葉が家人たちにまるで理解されていないことを知って、驚愕の極みであった。ゲスゲス。
  調べるとからっぽやみというのが一般的な方言のようだが、うちでは母(ただし実母。養母はいない)がからっぽのやみと云っていたので、これが定着していた。
  北海道方言で怠け者の意味なのだが、家人たちはいずれもこれをもっと重大な事柄だととらえていたようなのである。空っぽの闇だと何か哲学的雰囲気がある。空に闇。うーん。たしかに。
  でも家人1はこれを30年間以上、主に母(ただし実母)やその妹(ただし実の叔母、、、でいいのか)らから聞いてきたにもかかわらず、まるで理解していなかった。なんたることであろうか。まさかこんな一般的な言葉を理解できないとは思っていなかった我輩も解説することもなかったわけで、、、。
  かくして断絶や断層、断崖や天涯孤独、そして母の故郷付近などでは狂言にもとづく小学生の置き去りまで、そういったことなどが生れるわけである。もっとも平凡なことがもっとも非日常的なものになる。
  ということを考えたのは、高野秀行先生が秋田県南に納豆探索にやってきて、実はほとんど言葉が理解できなかったという文章が頭にあったからである。結局東京生まれの彼には、ビルマのシャン族と話していたほうがまだわかるというわけだから。東北深部はアジア辺境に匹敵するというかそれ以上というか。
  そんなに秋田弁や津軽弁、おまけに山形弁はむずかしかろうか。難なく流暢に使いこなす我輩もまた道南のアジア人なのであろうか。そういえば、サッポロの人間が(北海)道南地方の人と東京で話してあまりわからなかったというはなしも聞いたっけ。ふん。サッポロの人間はサッポロさ、さっさど帰れ゙ってごどでねぇが。・・・あ、まずい。
  ちなみに「空骨病み」から来ているという説があった。病みは明らかに病みではある。からっぽね(ない骨が痛いというふりをして仕事をしない)病みなのだろうか。この説ではむしろ母のいい方が正しいかもしれない。からっぽねの「ね」が「の」になったということで。