panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

舛添先生に思う


  昨日の疲れをいやしてもう気づくと週末である。秋田からもらった大分前の電話にも気づかず、携帯の機能に不信をいだく今日である。うーん。
  昨夜のクレイジー・ジャーニーではリヤカーを引いて旅する人が出てきた。この人、我輩と同じ年のように思うが、アマゾンだのサハラ砂漠だのをリヤカーで横断するということのすごさとむごさに唖然とする。というか、時々その自画撮りの映像に声が出てしまう深夜の我輩。何という壮大な無意味さであろうか。禅にも通じるそのバカバカしさ。でも思わず人格が高められるような錯覚をおぼえる。やはり禅の境地ということになるのだろうか。この全行為の意味からの離脱が。
  さて舛添先生の政治的余命もつきそうだが、やっていることがせこいとか云われてかわいそうな感じでもあるが、自業自得だから同情はしない。しかしこのせこいと云われつづける金の使い方だが、これって貧しい学者の研究費の算段の延長なのではないかという気がする。
  東大元助教授だから潤沢に資金はあったかもしれないが、研究資金を生活費にいれることはできないし、学者の生活は贅沢からは遠い。でも舛添先生は昔から誇大妄想だし、生活も豊かにしたい気持ちが強い人だった。かくしてこういう次第からみて、大幅に一線を踏み外したということであるのだろう。
  でも我輩はクラシックのCDのいくつかは研究費にしている。仕事で使うからだが、バロック以前が多い。これは主に資料だからだ。聴いていて楽しくはないということはないが、ノートルダム楽派の多声化の初期と後期を把握したいと思えば、自腹でやると大変な出費になる。こういうときこそ研究費なのである。じゃね?それでもショパンは請求しないようにするという一線がある。それは仕事で人前で論じないからである(しかしショパンの時代についても云う必要があればショパンも資料代となることはいうまでもない)。
  そういえば高校部活に関する博士論文(しゃかいがく)の本が部内で法律家のアホみたいな人間の検閲にひっかかったことがある。唖然としたが、中等教育の部活くらい日本社会の基本的秩序を構成する重要な部分はないのではないか。部活の延長でいまや職業生活もなされる始末のようにすらみえるし。我輩は野球中継と部活の廃止が日本近代化の悪い部分を絶つ策だと思っているのだが、こういう風にチェックされると、俄然我輩の攻撃精神が発揮される。
  ともあれ我輩に議論で勝つなどいう人間はいない。皆さん紳士的なんで。ということで援護もあって、この場合は難を逃れたが、いかに法律家がアホかということの一例でもある。こういう人間が本を読んでいますといった顔をしているから、日本は知識界からくさっていくのだ。
  ともあれ、学者的研究費の算段の無遠慮な延長が舛添先生のミスだった。そしてもともとそういう人だったのだし、うまく円環を閉じたという印象がある。仕方ないね。
  さてこのモツ君。ピアニストよりも指揮者のパッパーノのほうに焦点のあたった不思議な映像である。