panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

心配はしつつも旧来の生活にもどる。


  今日は夕方、我輩の昔の研究について聞きたいという人が京都からくるので、午後出かける。それまでは新しい、画質にやや難のあるシャープアクオス50インチで録画した映画『キングスマン』をみながら、そしてちょっと飽きると、ホロヴィッツのDVDでモツ君弾くのをチラチラ眺めながら、届いた高階先生のこの本をソファに寝ころんで読んでいるわけである。
  ま、厳密にいえば、いま現在は、自室で、机のまえにいて、ヴィヴァルディのオペラ・バジャジット(中東の皇帝)を聴きながら、この消息文であるブログを書いているわけだが。基本的に大森の家人たちに消息を伝えるということなのだが、昨夜も大森寄ってきたし、あっちも熱心に読んでいるわけではないにちがいない。消息文の消息は不明なのだ。
  秋田の友人が腸炎となり家人1は帯状疱疹となり叔父は意識がかろうじてあるくらいだし叔母は手術で入院である。ということで心配事はつきないが、かろうじて自分の本来的生活に復帰しているのである。
  しかし日本では誰でも俳句や短歌をつくるが、こういうのは世界的には例外だという指摘。昔から知ってはいることだが、なるほどもっと本格的な文脈で示されれば、圧倒的に奇跡的なのだということがわかる。しかも奈良時代の和歌はいまでも我々が読んでわかる。こういうことはヨーロッパではない。昔の言葉は学者でなければ読めないのだから。
  うーん。ますます上流気取りの俗物舛添先生のことが腹立ってくるなあ。帰京してみると、もうせこい舛添は免罪されたのか。せこいのではなく、もっと悪質なことをしたようにみえるのだが。こういうゴネ辞任は法的措置から逃れるための彼の壮大な企みだったのではなかろうか。その辺をサヨクの市民団体なら追求しなくては。
  パソコンを前にすると、文化も文明も跡形なく消えてしまうなあ。ソファに戻ろう。11時。