panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ヤミのままか、イヤミになるか


  日曜の夜。大森まで送っていって帰って来た。気づくともう11時半近い。あっという間に時間はすぎていき、自分の時間もへっていく。でも死ねば自分では気づかないのであるから、時間など存在しないも同然である。とすれば、生きている間の時間というのも大したものではないかもしれない。大したものだと人類が思うようになったのは長生きするようになってからではないか。30数年で死んでしまうのなら、生の世界にも死後の世界にも頓着しないかもしれない。
  さて心理・哲学系はヤミをかかえた人が少なくない。彼らはヤミを自らの問題としてとらえる傾向があり、最後はそのヤミにとらわれてしまうという観察がもし万が一正しいなら、社会科学系はその問題を客観的にとらえることができると考えて、イヤミになる。
  というのも社会科学系の人もまたヤミをかかえて出発することが多いからである。若いころからものを反省的に考えるというのは人間一般の性向ではない。もっと長ずればそういう傾向も出てくるとはいえ、若いころからそういうことに引かれるのは、少なくない場合において、心のなかにヤミがあるからだということがいえるなら、そのヤミがヤミのまま最終的に露呈してくるのが心理系。他人事かのようにそのヤミを処理してしまう結果、イヤミな人間になるのが社会科学系。
  という語呂合わせみたいなことを深夜考えながら運転してきた。日曜夜のラジオまで今日はつまらなかったもんで。いい加減にせんかい。放送界。テレビもラジオも。・・・午後は、スウェーデンの名作マンケル先生著刑事ヴァランダー・シリーズを一挙放映していたので、家人1と食い入るように眺めた。このシリーズは2冊だけしか読んだことはない。
  どうでもいいが、イギリスもどこもなぜ白人の刑事ものはいつも他人との関係が衝突からはじまるのであろうか。警部ルイスすらそうだしなあ。我輩の解答は言語の構造というものだが、あまりに素人臭いので展開しない。
  久しぶりにヤノシュの室内楽を聴きながら。ただし写真は前にも紹介したレジネーヴァ。技巧的でうまいが、ヘンデルだけではものたりない。彼女は短調系が好きかもしれないが、とうとうと見事に短調を歌うのが続くと、専門家でもない我輩はやや飽きる。