panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

悲しき北海道----北の湖、千代の海、貴乃花


  北の湖が亡くなった。生前は成績がオール1だと言われていて(成績のよい我輩もちょっと上からそう伝言ゲーム的にいっていた)、北海道の恥じゃないかと思っていたが、立派な人物であったということのようである。最近はライバルの千代の海が理事長の椅子を狙っているとかいわれ、そのバトルがときたま報道されていた。しかし二人は二歳違いの、同じ北の辺境北海道の産であった。
  北の湖壮瞥、千代の海は道南の福島、そして貴乃花は室蘭だった。壮瞥は室蘭のちょっと北側の農村である。つまり角界をわかした当時の代表的力士はいずれも北海道の道央と道南の育ちだった。ゆえに我輩の大学から大学院時代には比較的よく相撲をみた。とくに千代の海は何度も書いたように、高校時代に千代の海と同じ中学の出身者がいて、よく話を聞いていた。これが後年の千代の海である。当時はまだ修行時代ではあったはずだが、印象深く覚えている。
  我輩は当然道南函館の出であるので、そして同級生でもあり、千代の富士のファンだった。悲壮な貴乃花にはその悲壮のゆえにそれほど熱狂できなかったが、でも好きだった。沖流しをしていた若乃花の弟の貴乃花には海の男の顔があった。同様に千代の海は漁師の子供であった。顔つきは典型的な漁師の顔だった。対して北の湖は農村の出であり、農民の顔だと思った。我輩は精悍な海の顔が好きだったので、やはり北の湖は苦手だった。
  でもそのうち二人は亡くなり(やはり相撲の太りはからだに悪い)、鬱蒼とした歴史のなかの住人となってしまったいまからふりかえると、辺境北海道から力士があれほど出たのはやはり貧しさだったと思わざるを得ない。当時もそう思ったし、自分だけはそういう北海道からまぬがれているとほっとしたともいえるが、目くそ鼻くそのたぐい、いずれにしも我輩も貧しき北の大地に生まれたものであったということをいまさらながら感じる。
  我輩は自称、教養のある人間である。だからとうとう東京に出てきたとき、自分を凌駕する圧倒的な教養人がくさるほどいるかと思っていた。恐れてもいたが、期待もしいていた。そして30年。我輩はたゆまず、でも勤勉からほど遠くながら、教養を身につけようと努力してきた。努力する教養というのは自己矛盾だが、そういうよりも知識を得て、視野を広げようとはしてきた。
  そしていま気づくと、大半の我輩の同業者は専門的知識はあるが、バランスのとれた教養人というほどではないということを悟るようになった。むしろ自分の方が教養はある。と語る教養人というのもまた一種の自己矛盾だが、いずれにしても教養のある人間はあまりいないということに気づいた。
  そしてその上でいえば、自分がなぜこうも広く知識を得ることに邁進努力してきたかと考えるに、それは、北の湖千代の富士貴乃花のような、辺境の意地だったのではないかと思い至る。辺境故に何とか、金持ちとか地位とかではなく、もっと何ものでもない、観念の上で凌駕したいという、いわば根拠のない復讐心のような心持ちでつとめてきたのではないかと。
  もしそう考えることに一理あるなら、まったく当時は接点のないと思っていたこの三人といまさらながら深くつながっていたのだなあというような感慨を深くする。彼らは裏返された自分であった。
  だからいま初めてあの強くてふてぶてしかった、そして成績なんか関係ないのにほんとかどうかもわからないのに成績を笑われていた北の湖の心中を察し、自分の思いの足りなさに唖然とし、呆然とするのであった。