panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

そろそろ2時50分


  来週月曜日の準備もおえ、少しほっとしている。そして空は明るい。さすが首都の空。からりと晴れわたり、気持ちも生き生きする。
  と凡庸なことを書いている一方、家では「新米刑事モース」の8,9弾が今週放映され(ワウワウ)、それまでのすべてのものも再放送されたので、改めて1965年ごろのイギリスを味わう。
  オックスフォードの先生や貴族の広大な屋敷や労働者や刑事たちの狭い家などをみるにつけても、イギリスドラマの真骨頂はドラマの名を借りた階級社会批判だ。その辺の作り手の批判意識が日本のアホドラマとの決定的違いかもしれないが、なんといってもルーティンでこの水準のドラマはつくれない。日本も毎クール何がしかのアホドラマを量産するよりも、もっと考えるべきことは多いはず。でも放送局に人材がいない以上、どうなるかはわかならい。というかわかっているか。実は。どうにもならない。
  ということで十数年前に出たこの本はイギリスと大英帝国で日のあたらない人々について書かれた論文集。黒人、東欧ユダヤ人、カトリック教徒、ボクサー(ジェントルマンのアマチュアとの対比で)、成り上がり者たち(ローズスカラーという英語圏最高の留学生制度についてやアイルランドという征服されたところの貴族の成り上がり人生など)、ガヴァネスたち(これは中産階級の女性家庭教師のこと。ジェーン・エアなんか。彼らは同じ階級で結婚できずに職についた。当時女性が職をもつことは下品なことだった。彼女らは白人奴隷とさえいわれた。だからヒステリーにもなるわけである。イギリス小説の最大のテーマの一つはいかに中産階級の女が結婚相手をみつけるかである。ご承知のように)なとである。
  50年前のイギリスはまさにそうした19世紀的なものがまだ色濃く残っているようである。ドラマを見る限り。
  なお、このドラマ全体で我輩がもっともひかれたシーンは、第1話で、別の警察署からオックスフォード市警に派遣されるモースがバスのなかで、雨で濡れた窓ガラスごしにみえるオックスフォードの風景のなかで心細げに逡巡でもしているかのような場面である。・・・第1話はヤング・モースという題名。若きモースはその反抗心と繊細さで、後年の警部モースのやはり原型なのである。