panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

音楽史はどうなるのか


  昨夜は仕事日。極度に疲労して風呂にも入れなくて寝たが、頻繁に目がさめる。ラジオも死んだような状態だ(中身がアホである)、やはりCDを入れたままのガルッピをちょっと聴く。聴いては寝て、起きては聴いて、なんとか8時まで眠ることに成功した。何時に寝てもどう寝ても8時くらいをめどに起きれば、一日は比較的うまくスタートできる。
  弦楽協奏曲全集と銘打ったCDはただの一枚。やはりガルッピは鍵盤楽器とオペラ作曲家なのだろうか。それにしてもこの弦楽の方、安いので買ってみたが(700円くらいだった?)、実に典雅な曲ばかりだ。全7曲。これでガルッピのすべてなのか。もっと発掘しろ!ほんとにコンプリートなのか。
  ボブ・ディランがロックを芸術にまで高めたというノーベル賞委員会の評言に文句がついている。ロックは芸術じゃないのか、ディラン以前に高まっていたのか?。どっちなのか。いずれにしても興味はないのであるが、芸術という概念も一時代の産物なのだろうから、アートであるか否かというのはきっとつまらない問題なのではないかと思うのみである。
  我輩のロックへの偏見はこうである。戦後の豊かな、しかし殺伐とした社会はイギリスのような、アメリカのような階級社会のなかではある種の怒りや絶望を生む。長距離ランナーの孤独だ(知らない人はここ飛ばすように)。豊かになりつつあるのに生まれの階級的偏見の下に置かれた労働者階級が、大学が決して階層浮上的意義をもたない社会(これはイギリス)で生まれた高学歴中産階級の一部と「大衆社会化」状況のなかで結合して、体制にプロテストする音楽を必要とした。ロックは、もともと階級社会のなかでの豊かさの偏在に乗じて生まれた音楽である。低階層の連中も声を上げる権利を、豊かさがある程度浸透して行使できると感じた人々が出てきたときに生まれる音楽ということである。
  ただしもともとはそうであってもいまやロックはただの雑音にしか聞こえない。そもそも日本は階級社会ではないし厳しい階層的差別もない。社会主義者ですら文化的保守主義であったイギリスでは労働者階級を真から受け入れる社会主義者はいなかった。あるいは少なかった。ホブズボームなんかは完全な精神的体制側だった。だからますます孤独を感じるイギリスの低階層人民はロックを必要とした。しかし日本はそうではない。だから本来、日本でロックがはやる必要はなかったのではないかと思う。舶来のポップミュージックとして明治大正のクラシックと同様に受容されたのではないか。
  日本でロックをやるな、きくなといっても仕方ないが、そんなに苛烈な社会的階層差別のない国でやってもただのおしゃれになるだけではないのか、とそう感じるのだが。
  でも聴いている結果、精神がささくれだってくるということはないのだろうか。心配である。社会的抗議にむかわないロックが芸術的愛好の方向にも行かないのなら、あの大音量の吉外じみた演奏が人の精神に与える影響はかなりマイナス方向にむかうのではないかと、100年老人は心配するのである。ほんまや。
  写真は、しかしシュトラウスマーラーマーラーのピアノ(弦楽?)四重奏が入っているらしい。これはある映画でかかっていた曲ではないかと思う。何とかアイランドという孤島の精神施設の映画。ディカプリオが主演の。そのときマーラーにこんな曲があるのかと思って何年もたった。買ってみることにした。もう一つ、ジモーネ・ケルメスの唄も入っているので。しかしHMV。出荷準備中が何日も続く。この点はだからアマゾンという会社がいかに早いか、いかに労働者を過酷に働かせているかということである。でももう届け。何日待たせるのか。