panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

白身魚を食べる


  昨日はやはり倒れていたが、今日は銀座に出る必要があった。リクエストによってカフェ・オーバカナルでヒラメのヴァプール白ワインソースを食べる。泰明小学校の目の前である。勿論一人ではない。我輩が休日に一人銀座に出て、しかも何やら洋風なるものを食するなど、到底ありえない話ではないか。すなわち、そこはそれ、社交である。
  社交も我輩には勉強の一つである。それは、世過ぎ身過ぎの術ではない。我輩が意識的に世過ぎ身過ぎをしたという記憶はない。これはまさしく現代社会研究なのだ。通りをゆく人々の装いのシック・&ゴージャスなことといったら、ない。大都会東京を人々は銀座において一人一人実践しているということがわかる。
  ともあれ、そういう社交であるからして、いわゆる社交は我輩には社交ではない。これもまた真剣な知的営為の一つなのだ。・・・だからといって,、勿論、笑いがないわけではない。仕事には笑いを、笑いには真実味を、真実味には滑稽さを。一つの同じ円環をなすところに、一本調子な我輩の真骨頂があるだろう。
  あるだろう、なんて笑わせるなあ。ふふふふふふ。ただいつも笑いをもたらすよう勤めることが、思うに社交の要諦である。平然とオチのない話をする東京的知識人の育ちの悪さを言いつのるべきなのである。哄笑微笑失笑その他何でもオーケーだが、笑いは申し訳ないがある意味、一つの制裁でもある。
  最後は急激な雷雨にたたられたが、間一髪で電車にのれた。正義は勝つわけである。例によって。しかも地元の駅で降りたところで長いこと会うことの叶わなかった人と会う。たまにこのブログをみていてくれるということで、ふふふ、嬉し恥ずかしだが、ショー・マスト・ゴー・オンなのであった。・・・意味不明?そんなことはないでしょが。まずは。

  まるで東南アジアの大都市のように変身をとげた銀座。ある種のグローバル化だが、あるとき東京が東南アジアのようになっていることを知ってショックを受けた。東南アジアばかりに目がむいて肝心の東京の「変心」に気づいていなかったのである。しかし独特にシックだという感がある。さすがに長い近代の伝統を負う都会である。