panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

半分寝ている金曜日


  朝疲労しているので10時までうだうだして、バロックオペラの到着をまつ。来なかったらもう職場に出るというちょっと前にやってきた。17曲39枚。これは今冬の安いコートのかわりである。つまりそういうこと。
  さっそくあわせて買ったヴィヴァ君の一枚を聴いてやってきた。それが写真。最初に二つのトランペットのための協奏曲が入っていて、古楽器的音色に若干たじろぐ。この曲は学生時代からの愛好曲なのだが、お神楽みたいに聴こえる。モダン楽器のほうが聴きやすい。
  ともあれこうして届いたばかりの曲を聴きながらやってくるときが一番の幸せかもしれない。ま、もともと幸せ水準の低い男なので、すぐに幸福感に包まれる。ふふふ。これも技術なのか。あるいは古事記の時代以来の日本人の宮仕え的な人間存在に起因するものか。
  ヴィルヘルム・ヘニスのウェーバー論を思い出す。彼はウェーバーの全体的問題は社会科学ではなかったという論をはって衝撃を与えたが、彼の理解ではウェーバーの企図は英語でいう人文科学(ヒューマンサイエンス)だったとした。つまり社会科学ではないというのである。ウェーバーは、社会科学の定礎者ではない。彼は生活態度の合理化の結果として生じた「専門人的萎縮」、人間性とは無縁の自動化した化石化、近代の鉄の檻に生息する人間、つまり有名な精神のない専門人、心情のない享楽人という近代人規定を問題にしていた。近代的「人間存在」の特性としての実践的合理的生活態度こそがウェーバーの中心的問題だったと(『マックス・ヴェーバーの問題設定』1991年)。社会や合理化一般が彼の問題ではなかったというわけである。いってみれば人間の質的側面、端的に勝手にいいかえれば一種の倫理学(人間存在の発展の歴史)がウェーバー君のめざした学問だったということではないかと思う。
  不自由を不自由とも思わず大勢順応的なこの古来からの日本人的生き方こそが、ニーチェの不安視した人間の最初の?末人(ラストマン)のありようだったのかもしれない。空気を読んで空気に支配されてよしとする日本人が。・・・うーん。だとすれば、そうであってはならないと思うポキの回りはほぼ全員、敵なのかもしれない。やはりポキは酸欠状態な一生だったと思う。栄光と孤独と孤独と孤独と孤独と、、、、、、。こうなったら、選ばれてあり、と太宰的に開き直っていくしかないか。なんでポキのようなおとなしい男が全員を敵にがんばるのか。不思議じゃね?
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  ウェーバーのこの論点は実はアメリカでもカートライト・ミルズに受け継がれている。人生の意味が喪失される一方、その付随的結果にすぎない「収入、地位、権力」に生きがいを見出すというのが近代的な合理的な生き方だからである。これはまさに戦後のサラリーマンを彷彿とさせる。つまり末人の空虚な完成体のひとつが我々サラリーマンなのである。最初から付随的果実に狙いをさだめて生きていく日本的よい子、その完成体としてのサラリーマン。
  ではこのサラリーマンに感情はないのか。むしろ彼らの仕事の多くは「感情労働」に費やされている。むしろ「よき人柄」を売り込むことによって、市場競争を乗り切ろうとするのが古典的な、あるいは新中間層としてのサラリーマンである。それは気配りとおもてなしの心をもった感じのいい人間として自己演出する。それが結局、自らの自由と感情を喪失させることになるのだが、逃れるすべはないのか。