panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

蛭子能収氏、渡辺淳一説-----もしくは成人対老人


  今日は午前中一つ外で仕事をしたら、午後は雨もふってきたし、睡魔も襲ってくるしで、残してあった、2日再放送されたローカル路線バス乗り継ぎの旅第17,18編の録画を帰ってきてから見た。そこで昨日につづいて今度は新たな発見をした。
  表題がそれだ。どうだ、似てないかな?
  太川陽介と蛭子先生について改めて考えた。そのことを書いておくか。いつになったらイギリス組曲第2番の話に戻るのかは未定である。
  ルイルイ太川先生は規律訓練型の一つの近代的人間類型である。リーダーとか隊長としての責任感あふれる、あふれすぎる現実的なタイプを代表している。本人がほんとにそういう人間であるとは限らないが、成熟した期待される成人としての役割をつねに遂行している。
  他方、では蛭子先生が未成熟な人間であるかといえば、実はそうではない。むしろもっと成熟した人間類型というべきではなかろうか。眠たいと思えばどこでも寝てるし、なんとかなるさと思っている。勿論、なんとかしているのは太川先生だが、しかし、どうせテレビ番組じゃないの。なんとかならなくても、どうにかはなると腹をくくっているところが、実は、どうしてどうして立派な成人としては、むしろはっちゃきになって他人にも(つまり蛭子先生に対して)きつくあたる太川先生よりも、人間の自然に素直という点で一つ上をいっているのではないか。
  図示的には近代的人間類型と非・前近代的人間類型の対比といってもよいが、それでは面白くない。視聴者の側からいえば、必死になって蛭子先生を動員しようとしている太川先生こそ状況に動員されているわけで、それを寡黙な本音でぽろっと批判?しているところにこの番組の面白さがあるのではないかという気がする。つまり動員し動員されることに必死になっている、しかし現代社会ではどうしてもそうならざるを得ない「成人たるべきもの」(太川隊長)をいなす真の成人、あるいは、よりいっそう成熟した成人としての『老人』が蛭子先生の役どころなのだ。
  目的地にたどりついて、してやったりと気の小さい口元をほころばす太川先生に対して、ま、よかったんじゃない、たどりつけないよりは?くらいの、いわゆる一つのテンションの低さを見事に演じきる老人の面目躍如ということで、やや性格のひねくれた変人にして、しかしむしろ近代西洋人に近い(食べるものの選択からして)蛭子能収先生は一種の動員社会批判でもあるということを思うのであった。・・・・・ちがうかな?