panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

計測し観察し分析し管理する


  大規模修繕の一環として、明日からうちに小規模な改装が入るので家具を動かしている。マンションなのに雨漏りするので壁や壁紙などをどうにかするのである。・・・どうするのだろう。どうにかするわけである。やはりここにも文系的限界が露呈する。ま、やれないことを誰かやるというのが分業である。人の前で一時間半しゃべるというのも特技なのだし。誰もが全体を把握していないのに全体はほどよく前進するというのが市場的近代ではあるのだが。
  万歩計を買ったことはご存じだろう、、、。買ったのである。それでたまに一日はかっている。大体5千から6千歩くらいにしかならないが、外出する際につけ、帰ってきたら外すから正確にはもっと歩数は稼げている。万歩計をつけているとエレベーターが来ないと、8階から1階まで歩くかという気になる。回り道すらある種のお得感がある。
  パソコンが普及したときに身の回りをすべてパソコンで管理するというようなことを特集した雑誌がいっぱい出た。いろいろなソフトが紹介されていた。その前には手帳に何でも整理する営業マンの手帳が写真入りで集められた雑誌も売れていたようである。近年だと東大生の美しいノートのとり方(事実美しいのである)を集めた本が人気をかもした。システム手帳が流行ったのはもう30年も前かもしれない。
  ことほど左様に、システムとか自己管理というのは近代人お好みのテーマなのである。ノートや手帳を含めた何らかの器具=道具=機械を使用して自己管理を進めるというのは一般の勤め人にとってももっとも関心のある事柄なのだと思われる。直接仕事にかかわるからであろう。システムというのは古い英語なのだが、我々がシステムというときは戦後の近代化の時代を暗黙に思い浮かべている。管理もある意味、複式簿記の登場したルネサンスのイタリア人の念頭にあった要請だったかもしれないが、ごく近代的意味で我々は受けとっている。
  近代人あるいは近代と自己・システムの管理は結びつき、いまや強迫的レベルをこえて自己の一部になりつつある。万歩計をもってこない日には歩くのはますます退屈だ。いけないとか思いながらも、管理する主体の自由を味わうのである。
  しかしこれはあくまで飼い馴らされた自己を生み出すだけだ。管理されることで寿命が延びたり危険を避けたりすることがよりできるようになるのかもしれない。しかしそうした利益を伴う管理の楽しみ(joy of management)は、管理されることを好む自己を生み出してもいる。いまや充実した一日は一万歩をこえたかいかんで判断されるということでもあるのだから。
  人々の生の充実が機械的管理的計測の数値によって判断されるなど、実に頽廃ではないかと思うのだが。・・・ん?人々のではなく、自分の生だって?ま、そうなんだが。
  しかしそこはそれ、我輩は学者である。はっきりその辺の経緯は自覚しているのである。だからその点の自覚の弱い方々に警鐘を鳴らしているつもりなのだが、ま、弱い人々は弱い人々なりに管理される自己をもともと好むということでもあるのかもしれない。「自由からの逃走」があるなら、管理されないことからの逃走もありうるはずである。管理を一概に嫌うという風に近代人をとらえると、どうも間違った未来予測になることがあるように思う。とくに日本人は飼い馴らされた自己以外の選択肢が弱かったという長い歴史があるようにみえる。それがペコペコ頭を下げるだけの近代人というわけのわからない人種を生んでいるのではないかと思えてくる。
  若人にこちらの考えをいうと、いつもまず、すいません、と返答されるのには、困ったを通り越して、絶望的で爆笑的な感じをうける。悲喜劇的とでもいうか。苦笑い?大人の苦笑いには、深刻な意味があるのだがなあ。