panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

脅迫されて戦後70年


  先週の週末は西大井から大森のあたりを歩いて、疲労し、今週にいたったので、今回は静養のため閑居しているが、歩いた理由は家探しである。家人123が独自に住む家かアパルトマン(ってアパートだが)が必要なのである。つまり来春から我輩は横浜に一人孤高の人生を送るのである。ふふふふ。まいったか。
  職場などに近いところに住みたいとは何事か!我輩のように自動車通勤せんかい!そんな次第で家探しでをしているということである。
  さてそれはそれとして『言論抑圧---矢内原事件の構図』(中公新書)をブログで書評した三浦淳氏(新潟大学)がこういっている。
  「矢内原はキリスト者の立場から日本が中国大陸に軍事侵攻していることを批判している。それに対して蓑田は、キリスト教は決して平和主義の宗教ではなく、むしろヨーロッパの植民地主義とアジア侵略に同伴した宗教であることを指摘し、現実の世界は矢内原の言うような理屈ではまったく動いてはいないと喝破しているのである。これは明らかに蓑田(胸喜)のほうが正しい。私が思ったのは、ここにすでに戦後日本でも変わらず維持された言論界の構図が見えることだ。きれい事を言い、日本を批判し、欧米が牛耳っている世界の政治力学には目をつぶる大学教授と、それよりはるかに広い視野と歴史観から異議を唱えるジャーナリストという構図である。その辺を著者が自覚的に論究していったら本書はもっと面白くなっただろう。」(http://blog.livedoor.jp/amiur0358/
  知識人とされた人々のいうことは考えてみれば、普通の人たちが思うこととは違うことをいうわけだから、いつも新鮮だったが、何か足りないものを指摘されて、居心地が悪かった。そこでもっと頑張ろう、学ばなければと思ったものだったが(浅はかだった)、それが高じると大江健三郎的死ぬまで真面目にの不愉快さに通じることになる。・・・彼の一学徒風の姿勢をテレビでみるたびに吐き気がする。偽善なのか、本気の奴隷根性なのか。偽善をはかる奴隷というところか。
  とうとう朝日新聞の権威の崩壊がはじまり、ほとんど脅迫に近かった学者先生方の戦後70年間のいうことから、多くの人々が解放され、距離をとれるようになることは、まことに慶賀の至りである。まことに。ほんまに。なまら。うだでぐ(ほんとにイン北海道)。